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ラオス・ベトナム旅行記:その1

<前回の記事はこちら>

といっても、多分、まだ導入で出国まで至りません。

さて、少し時間ができたので、どこに行こうかと思っていたのですが、なんとなく心に引っかかっていた動画というか、番組がありまして、アメリカ人のシェフで、作家でもあるアンソニー・ボーディンがホストをしていた番組で、ラオスを取り上げていたことがありました(彼自身は、2018年6月に死去)。

確か、彼自身がラオスを取り上げた動機の一つに、アメリカ人として、ベトナム戦争に巻き込まれてしまったラオスで、地雷の犠牲になった人と食事をするということがあったと思います。なかなか複雑な心境ですよね。ある意味とばっちりを受けてしまって、その犠牲となってしまった、やりきれない思いがするラオスの人たちと、その当事者の国から来た人との食事というのですから。これはこれで重要なテーマなのですが、その番組の終わりの方で、わたしもいったルアンパバンという世界遺産にもなっている村の風景が映し出されていました。おそらく撮影そのものは13、4年前だと思うのですが、昔から続いていた早朝の托鉢の風景は、これからも続くのか、こんなふうに世界中に紹介されることによって、その宗教的行為も観光イベントになってしまうのではないか、そこまででなくとも、今よりもっと人が来るようになっても、このような静かな早朝の宗教行事は続いていくことができるのか・・・そんなことを地元のガイドの人と話していた様子がありました。

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これを聞いて、思い出したのは、アメリカから来た宗教学者の人に、「京都という町はスピリチュアルな町か?」という何気ない問いでした。私自身がどのように答えたかは、ちょっと思い出せないのですが、この問いは結構今でも思い返すことがあります(良い問いというのは、良い答えよりも重要なのです)。

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このルアンパバンも京都も、宗教という要素が極めて重要であるということは間違いないのですが、(街の規模が違うので簡単に比較はできないのですけれど)一部の人たちの「イベント」としてではなく、街全体に宗教的な雰囲気があるのかというと、なかなかそうでもないでしょうし、それしかないのでは、大きな発展は難しいでしょうし、排他的な要素ができてしまうこともあると思います(京都もルアンパバンも観光が重要な要素であることは間違いありません。ちなみにルアンパバンには国際空港もあります)。

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そのような雰囲気が、ひょっとすると、ラオスであっても、もうすぐなくなってしまうのではないか、という気持ちがあったから、私は今回の旅の目的地に、おそらくラオスを選んだのではないかと思っています。そういう風景がなくなってしまう前に、見てみたいという感情もあったと思います(そういう意味では、高速鉄道が作られる前の中国なんかにもっと積極的に足を運んでおくべきだった、という後悔は今でもあります。観光とは時間との戦いでもあるのです)。

とはいえ、村上春樹が、こんなタイトルのエッセイを出してしまうほど(ちなみにこの本でも、ラオスの話はちょっとだけです)、ラオスってどこ?そもそもなに?という認識の人がほとんどだったと思いますし、今でも、さほど変わらないと思いますし、正直、私も、当時はそれほどよくわかっていなかったと思います(今でもよく理解できているとは思っていません)。そんな、ある種の「マイナーさ」が、私を惹きつけたと思っています(マイナー好きというのは、昔からどこでもいるものです)。

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そういう意味で、ベトナムを選んだのも、ベトナムに(再度)行ってみたかったというよりも、サパという山間の避暑地でもあった村に行ってみたかったというのがありました。山の中なので、地元の少数民族がいるということもあったり、それ以上に早く行かないと、あっという間に力を付けつつあった中国資本に飲み込まれてしまうのではないか、その前にみておきたいという気持ちがあったのだと思います。

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若干いやらしいというか、覗き見的な「まだ発展していない地域を、上から目線で見てみたい」というのは、意識的になるか無意識でかはなんともいえませんが、観光ということを、真面目に考える上で、視点というのは無視できない要素なのは間違いありません。考える人は少ないですけれどね。

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ともあれ、どうせ行くなら、あんまり人が行ってないようなところに行ってみたいな、という気持ちから、今回のラオス、そしてベトナムを選んでみました。多分、明日から出発できるかなぁ?無理かな?




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