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05 ぼくのアサヒカメラ 表紙のモデルになり、小さなカットだけれど掲載され名前が載った。1972年9月号。    撮影篠山紀信

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1972年、23歳、アシスタントになった夏、篠山さんは募集した読者と旅を企画した。この年1年間篠山紀信はアサヒカメラの表紙と中2ページを担当している。
1月号は当時結婚したばかりのジューン・アアムスの表紙だった。中の2ページは軽妙なエッセイになっていた。
何月号か忘れたが、まるで明星の表紙のような、小柳ルミ子と、にしきのあきらの表紙を撮った。明星と全く同じ撮り方。
その写真は、アサヒカメラの読者の波紋を呼んだ。
写真雑誌をまるで芸能誌みたいにあつかった。非難ごうごうだった。
そうい非難を篠山さんは求めていた。
おたかい芸術なんて、というわけである。篠山さんがアサカメをやるようになり、部数が多きくのびた。
公称10万部とまで言われた。その後の、アサカメ上の力ずくな企画の連発、
篠山さんの世代は、すでに皆スター写真家だった。
そのなかでただひとり一般に無名だったのは、荒木さんだった。
いや、無名ではなかったかもしれにあいが、若かった僕の世代にとっては
変わった地味な
太陽賞の「さっちん」の写真家だった。

その電通の荒木さん表舞台異にひっぱりあげたのは篠山さんだろう。
そのぐらい篠山紀信は、絶頂の大スターだった。
荒木さんは篠山さンの完全にネガのような戦略にでた。
僕の助手の間、篠山さんはananもよくやっていた。
荒木さんは、篠山さんにいろいろなものを送り付けてくる。
手製の写真集が多かった。
ある時、アンアンの玉三郎特集の篠山さんの写真、前頁に、コンタクトの複写だろうか、それとも当時流行した、ミニコピーのような、ハイコントラストの大股開きの35mmサイズの写真を、玉三郎の顔に全頁に張り付けて、送り付けてきた。

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