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ひとり撮影会写真集 全国募集中 burabura Rambler ぶらぶらランブラー

 ZOOM講評 エントリー募集中! 

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参加料 ¥3000
含む ひとり撮影会写真集エントリー10点 
5日、11日、17日 ZOOM講評会
写真は、横木安良夫がディレクションしますが、10点全部使います。

スナップ写真についての実践と思いつき!
ひとり撮影会の実践として、4月30日、五月晴れの午前中、一時間ぐらいをぶらぶらランブラーした。
ヨコギアラオがどんな風にスナップしているか、何を考えているかを実況(録画?)してみたい。あくまでフィクションだが、写真を撮る参考になればと。
スナップは、特別な写真を撮る必要はない。
特別な写真が、まれに撮れるのは偶然だ。その偶然を呼び込むのが、スナップの醍醐味といえる。
撮る場所はどこでもいい。有名な場所、意味ある場所がいいのは当然だろう。日本だろうが、海外だろうが、スナップする場所は、撮影者の都合で決まる。
今回は、「奇妙なゴールデンウイーク」とその周辺、空間的にも、時間的にそれがテーマである。テーマというか枠組みである。

スナップ写真は計画性がないから、スナップなのだ。
頭を空っぽにして、さまよう。
日常の、「なぜか気になるありふれた光景」という「秘密の花園」発見の小旅行だ。
まあ、ここまで読んで、ヨコギアラオのたわごとなので、興味のない人、このイベントに参加することの永遠にない人は、読む必要がないので、ここから先は読まないように。

基本僕は、スナップ写真において1枚のいい写真を撮ろうと思っていない。
1枚の傑作写真なんてただの結果だ。その結果は神がかりな偶然が支配しているだけで、撮影者の才能とは関係ない。
ただひとついえることは、撮影方法の仕組みに、
偶然性を呼び込む余地を作っているか、いなかだ。
計画しすぎると完成度は高まるが、すべてが嘘くさいものになる。
いや写真はもともと現実を似させた嘘なのだから、「嘘」は本質であり、悪いことではないし、
見事な「嘘」は、写真だから、評価は高い。

僕は、リラックスして気になるものすべてに向かってシャッターを切る乱写型だ。何を重視しているかは、「気になる」ということだけだ。それはセンスとも言えるが、スナップは感動して撮るものではない。
感動していたら、目の前の現実は、僕のなかで消費され、シャッターを押すチャンスを失う。

誰かが言った。
「未来に向かってシャッター切れ!」
感動するまえに撮るということ。
その予感をクンクン犬のように嗅ぎまわる。
写真は撮ればすべてが過去になる。
撮影は未来に向かってシャッターを切ることだ。

人類が、いや日本国民が、これまで体験したことのない、
ゴールデンウイークとおまけをいれた約2週間をしっかり記録しよう。

スナップで記録する。って、なんだ。
何がって、これは勢いだ。やりたいか、やりたくないか、撮りたいか?撮りたくないかの単純な感情的問題だ。

2021年4月30年日(金) am9時43分
スタジオをでて、すぐ前の道を撮影する。
いつも歩いている道だ。移動しながら、指の運動のように10枚ぐらい、目に入ったものに向かいシャッターを切る。
ボクシングでいえばジャブだ。一撃必殺ではなく、ジャブ。
そのことで、リラックスでき、反応が速くなる。

右折し、50mで馬込桜並木通り交差点。
9時51分
その場所を撮ろうと思ったら携帯を見ながら横断する女性がいた。
気にせず機械的にシャッターを押す。
カメラはEos5D、MarkⅢ、レンズは格安の50mmf1.8。
なぜそんな旧型の、Canonを使っているかと聞かれた。
答えは簡単、使い慣れているのと、新しいカメラをさして仕事をしてないので、買えないのと、カメラ欲が薄いからかもしれない。

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プロになり最初はキヤノンF1を2台使っていた。
モーター付きでシステムを組んでいた。レンズは、FD24mm、35㎜、50㎜、100mm、200mm。これが基本であと500mmのミラー。
NewF-1になったとき、テストでトラブルがあり、結局最後までF-1 を使い倒した。ほかにCanon A-1ワインダーつきがサブ機だった。F-1モータードライブが重かったからだ。
F-1が好きだったので、スナップなどはモータを外して手巻きでも使っていた。A-1 も、通常はワインダーもスナップのときは外していた。仕事ではワインダーつきが便利だ。
あとミノルタCLEを使っていた。それとヤシカのコンパクトカメラ、エレクトロ35。
プロになるまえに使っていたペンタックスSP、ニコンF、ニコマートELは、コーワSW。
プロになる直前メインのニコンからCanonF-1フルセットにに乗り換えた。その時キヤノンの営業に没収された。
プロのなったとき、メインカメラはハッセルブラッドだった。
仕事の半分以上はハッセルで撮った。
ガラスのようなカメラで、しょっちゅう故障した。
車に乗せるときは、荷台ではなく、バッグに入れてシートに乗せた。
ボディは500CM、2台と、EL。50mm,80mm,150mm,250mm。フィルムパックを4台。しょっちゅう壊れたが、銀一の代替があるし、困ったことはなかった。レンズの故障には困った。150mmが壊れて、80mmで撮るのはきつい時もあった。そんなときは、35㎜の出番だ。
そんなふうに、35㎜は国内ではサブカメラだった。
すこしでも動きがあるものや海外ロケのメインは35mmだ。
ある時期、広告、化粧品は、35mmコダクロームが指定だった時がある。コーセー化粧品だ。抵抗して両方撮ることになった。しかし使われたのはコダクロームだった。印刷がコダクロームに合わせてあるからだ。
のちに仕事カメラは、マミヤRZ67ワインダーつきがメインカメラなる。

僕は中判カメラが好きだった。そのボケ味、描写力、独特のたたずまい。
今は画質なんて関係ないと僕は言ってしまうが、かつて画質にこだわっていた。
それにはよいカメラ、良いレンズより、
フォーマットのほうが重要だった。
特にグラビア系の仕事では、肌の描写力は、35mmでは不満だった。印刷されたものを見れば歴然だ。
のちに国産フィルム(フジフィルム)がよくなり、ベルビア、プロビアの時代になると、グラビアカメラマンはペンタックスの645を使いだした。僕は、最初マミヤの流れで、マミヤ645フルセットをそろえたが、操作性や写りが不満だったので、コンタックス645フルセットに買い替えた。それでもメインはRZ67だった。そのほか4x5、8x10も多用した。
カメラの性能より、フォーマットの違いのほうが、僕は重要だった。
それぞれフォーマットによって、写り方が違う。
撮影があれば、どのフォーマットで撮ろうかと、考えるのが楽しい。
ニコンとか、キヤノンとかではない。それはたいして写り方は変わらない。
ニコンはキヤノン派とわかれていたけど、出発点がキヤノンだったからだ。その後のキヤノン発展は、ずいぶん助けられたような気もする。

F- 1のあとは、Eosになる。オートフォーカスのEosはすぐに欲しかったが、キヤノンの偉い人が、まだまだだといい、最初に買ったのは、Eos1だ。その時、EFの50mmf1.2を買った。ところが最初のEos1は、測距点が中心のひとつ。コサイン誤差だろうか絞り開放だと目にピントがこなかった。そのうち最新の安いEos10だか、100だが発売され、測距点が3か所になり、それがましでメインになってしまった。哀れ高価EOS1は、ポラロイド専用カメラになりさがった。
その後 音の静かなEOS5が出てからは(視線入力は使い物にならなかった)そのカメラが35mmのメインになった。ベトナムで撮ったアオザイの女性も、そのほか、多くの写真がEOS5で撮ったものだ。部細工なカメラだったが、僕にとってカメラは道具でしかない。
ハッセルブラドは美しいカメラだったが、そのあとのマミヤRZも部細工なカメラだった。でも、部細工でも、重たくても、好きだった。それは手持ち2.8で屋外で使えたからだ。ファインダーの性格差が気に入った。重さはブレを抑えてくれた。アクションファインダーをつけると、超重かった。でも写りには変えられない。

デジタルになり、最初はテストように300万画素の30D、仕事に使いだしたのは630万画素の60Dだ。600万画素を超えたとき、コダクロームや、ベルビア、プロビアと同じぐらいの解像度に思えたからだ。

そのごKISSデジタルからはじまり、かならず当時の最新カメラを使った。
そしてデジタル一眼として完成したのが、EOS5DM3だ。
4は、「世界の街道をゆく」で使っていたが、写真を撮るには、
3のほうが、僕は好きなのでこちらを今でも使っている。
その後のミラーレスは、EosMで止まっている。
しょせんサブカメラだった。
最新のEOS M5は、触っただけで、まだ使っていない。
高いので買えないのと、特別ミラーレスで撮る必要はないからだ。
どうしてもというときは借りる。
ムービーカメラが、誰もがレンタルのであるのと同じように、カメラもこれから益々、上級機は高くなり、レンタルが当たり前になるかもしれない。
カメラ会社がレンタル部門に力を入れる時代が来るかも。
それとも、カメラは見限られるかな。

さて、長い道草話。
その日は素晴らしい天気 
なんども言ってるように、僕は、なにを撮るかを、スナップの時は考えていない。
スナップは絵のデッサンのようなもの。頭の空っぽにして、本能に従いたい。
撮りたいと思えば撮る。

交差点を撮影したあと、
桜並木を左折して、しばらく歩くと善照寺の駐車場にこいのぼりが舞っていた。最近は町のなかのこいのぼりを見かけなくなった。僕の子供のころは、街にいくつもの天まで届く(大げさ)こいのぼりが舞っていた。
いまや、どれも小旗のように、小ぶりだ。
もうすぐ5月5日、子供の日。
こいのぼりを見るたび、子供の日って自分たちのことだとずっと思っていた。けれどいつのまにか自分は老人になっていた。

昔は電線が嫌いだったが、今は電線が好きになっている。
もっとも最近は電線ではなくほとんど、太ったケーブルがはりめらぐされている。ひどいのになると空に黄色のカバーが束になって吊られている。
不細工な景観。なんじゃこりゃ。東京に、美観なんて夢のまた夢。
まあ、この汚い風景が、東京の現実。
でも美しヨーロッパを見すぎると、この汚い日本がなつかしい。
いまや日本の、
この薄汚い風景が好きになってしまうパラドックス。
いかにも日本。

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出世稲荷神社なる神社があった。
知らなかった。たいてい車か自転車移動なので気づかなかった。
階段を登った。小さな公園になっている。
登り切ったところで、振り返り鳥居を撮る。

僕は構図を考えたことはない。素直に主題と決めたものを、
まず正面から撮るのが僕のやり方だ。
構図は僕の頭のなかにあるのではなくい。
世界は構図で構成されているかからだ。
自然は法則通り。人工物は「欲望の構図」として存在している。
僕はそれらを発見するだけのことだ。
旧式な写真観をもつ僕は、フレーム内のバランスを見ている。
気持ちいいバランスで撮りたいと思う。
それだけかな。
だからたいてい主題が中心のいわゆる日の丸構図だ。
先日あるアマチュアカメラクラブの講師をしたとき、打ち捨てられていたバイクの写真があった。斜めから撮って、しかもその主題の位置がずれている。どうしてと聞くと、日の丸構図にならないようにずらしたという。
とても魅了的なバイクだ。僕なら正面から撮るといった。
なぜなら日の丸構図は主題を明確にする基本だからだ。

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写真初心者に伝えたい。
写真の基本は、頭のなかから論理や意味を遮断して、世界を見ることが大切だといいたい。日の丸構図がだめなんて、その最たるものだ。
そんなことはどうでもいい。
それより、自分にとっての主題を決めること。

カメラアイとは「ただ見る行為」であることを知ること。
意味性やうんちくを抜いて世界を見ることがカメラの目だ。
まずそれが基本で、その目を獲得すること。
通常人間はそういう風には世界を見ていない。
経験や歴史、意味性を脳でごちゃごちゃにして、世界を見ている。
それらは、実は写真には写らない。
それは言葉の世界だ。写真は表面しか映らない。人間の心も写らない。そのことを自覚するのが、カメラアイだ。そんなこと、普通の人は経験がない。

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絵を描く人や、科学者、写真家がそういう目を獲得している。
獲得していない、写真家もいるにはいるが。たいていそういう写真家は、へたくそだと思われている。写真になんでもかんでも写ると信じているからだ。
いや写真には、かくされたメタファーがある。
それでも、メタファーさえも、遮断してみることが大切だと
僕は思っている。
もちろん僕も、メタファーは多用する。
でも、最初はもっと機械的に見る訓練が必要だ。
それは、
写真は、写ること、写らないこと、を自覚することがだ。
そのカメラアイを鍛えてから、
その時こそ、言葉と合体するべきだと。
なぜ自分は撮りたいと思うのか?
それは自分の情動や欲望に正直になることだ。
自分に正直になるということ。
世界を忖度する必要はない。
自分が唯一の「自分の世界の」構築者だからだ。

世間の常識や倫理は大切だ。
しかし、そればかりに縛られると、創造力がなくなる。
映画や演劇、小説はなぜ悪い人間ばかりが描かれるのだろうか。
善と悪。美と醜。真実と嘘。
その背反する時空でさまようのが人間だからだ。
それなのに、写真は「善」を求められる。

人になんと言われようと、自分に正直になる。大げさなことではなく、ほんの少しの正直が大切だ。

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都営地下鉄浅草線終点、南馬込駅前
僕と彼は遠くから向いあった。背後のトラックから彼は荷物を抱えながら向かってくる。この写真の足の運びを見ると僕をよけようとしている。
きっと僕も彼と同じように、彼をよけようとしているはずだ。
相手の進路をふさぐのはマナー違反だ。もちろんそうだけれど、もしどうしてもその瞬間撮りたいとなれば躊躇しない。
心の中の常識や倫理をはずす。だからそれで相手に殴られてることもある、
と覚悟が必要だ。
もちろんそんなことは、”絶対にしない”、というのも正論だ。
どちらにしてもシャッターを切る自分自身だ。
正論か邪論かは自分で決める。責任は自分にある。
法の問題ではない。意識と存在の問題だ。
それが人間だ。

いつも行くジョナサンの駐車場に向かう。僕は駐車場とみるなりシャッターを切る。駐車場の空間が好きだからだ。もともと車好きだからだろうか。
いや、子供のころ空き地がたくさんあった。バブルのあとも空き地が増えた。今や空き地は駐車場だ。駐車場代はうなぎのぼり。10分300円なんていうのもある。
そういう駐車場ばかりではなく、個人の家の駐車所も、気になる。なぜ気になるかはわからない。だからまとめ発表したことはない。
そのうち理由が、言語化できたらまとめるかもしれない。
(撮るときには、言葉は不要でも、発表するには価値も論理も必要だ)
それは僕の心の奥底の潜在意識だ。
写真は潜在意識を記録することができる。それが興味深い。

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西馬込駅は地下鉄の終点だ。もう少し掘り進めれば、池上だ。なのにそこに接続しなかった。理由はわからない。
東急線とつながれば、川崎、横浜まではすぐだ。
この場所は車なら近いの、電車では超不便だ。
京急、都営、京成電鉄は兄弟だ。レール幅が標準軌。新幹線と一緒。
JR、東急、小田急は、狭軌だ。レール幅が狭い。そういう理由も、東京と繋げなかった理由があるのかもしれない。
調べたら京王線は、標準軌よりせまい1372mm。昔の都電と一緒だ。都営新宿線もそうらしい。

ここには都営地下鉄の操車場がある。その陸橋からの風景が好きだ。
見上げたり、見下ろしたりする構図。土手を見あげる撮影に似ている。日本みたいに国中がごちゃごちゃしていて、シンプルな背景が少ない。見上げればシンプルな空が背景になる。
右の屋根のシルエット。いるか、いらないか。これがコマーシャルな写真ならフレームアウトするだろう。でもスナップは、この無駄がこの場所を暗示させる。そういうことは写真に写る。写ったものがすべてだけれど、写っているものから何かを想像する。そうすることで、実は心の中まで写してしまうこともある。

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陸橋の上に乗ると、フェンスが高く、カメラを持った手を伸ばして撮ることになる。ネットにレンズを押し当て、絞り開放だとぼけてネットは消える。iphoneなら隙間から撮れる。コンパクトカメラでも同じだ。
なんの主題もない写真。主題は上から見るということだ。
アングルが変わるだけでどこか不思議だ。
カメラを水平に構えゆがみがないように。もっとも今やフォトショップで簡単にビルのゆがみは直る。
いや昔からシフトレンズを使っても撮れた。
世界の街道をゆくのムービー撮影では、シフト・ティルトが使える24mmのTSレンズを多用した。建物を撮るとき自由度が増える。

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橋を渡ったところの団地の前に鉄棒があった。遊具はそれだけだ。駐車場だけではなく、児童公園もよく写真を撮る。子供はいなくてもいい。その空間が好きだからだ。これも真正面から撮っている。背景のネットと自転車といったシンプルな写真だ。ここの構図は、誰かがデザインしたのだ。アクセントのようにネット壊れがいい。

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山の上の住宅街を歩き、桐ケ谷、黒鶴神社に向かう。昔しは池上本門寺の裏門につながる尾根道にあった。江戸時代には、江戸湾と本門寺の五重塔が夕景に映えたという。
逆のコースからくれば、僕のスタジオから5分もかからないので、何度も来たことがある。
下の写真集は、CRP Rumber令和2年11月12日。その時、黒鶴神社では何かしらの工事をしていた。
これはぶらぶらランブラー個人写真集のテスト版。
家の周りの発見写真の写真集です。
ささやかな、でもちょっとばかり気になる、ぶらぶらRambler、Dearly Days~なぜか気になる、ありふれた光景~です。

神社の前の階段。スナップは同じ場所をなんども、日時や光などの、こちらの気分も変えて、撮ると不思議な面白さがあります。写真の分野では、「定点写真」呼びます。
ありふれた場所でも、「定点」をすると、それだけで意味が生まれます。
初心者は、意味をはずして写真を撮ることを勧めるけれど、
それができるようになったら、意味を加えるのは、第二段階として重要です。
現実は、言葉で記録されてはじめて、歴史上になるように、写真も撮ることで、意味が生まれるのです。
何の意味がない場所に、人物に、
意味を与えるって、ちょっと痛快じゃないでしょうか。
まるで、ミニ創造主のように。ささやかで、ささやかな、あっても、なくてもよい、極小の創造主ですが。

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黒鶴神社の裏に、極小のジャングルがあった。

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階段の反対側の坂を下るストローラーを押した若い女性と母親らしい家族が目の前を通り過ぎた。日よけのピンクに反応して、シャッタを切る。ファインダーをのぞく間もなく、一瞬の一枚。うまくフレーミングできたのは偶然。やっぱりスナップは偶然が面白い。

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スタジオに戻る途中、
僕の駐車場好きが、むらむらと沸き上がり、フェンス越しにカーポートを撮った。なんだろうな。天井のもやもやにひかれたのかな。光がきれい。大きくすると、もっといろいろ発見するかも。といいながら、
撮影時は全体的な雰囲気にひかれ、フレーミングしただけ。
あとでパソコンで見てセレクト、今回一番気になった写真。

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こあれは、4月27日に撮った写真。この日、夕方は曇っていた。それが時折雲が割れて直射がさす。空にわずかに青空。そして窓から付きだされた、小さなこいのぼり。家の中からは見えない。外から見るのだろう。

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さて、今回は30日に、1時間ぐらいで撮った写真、それと最後の写真は27日に撮った1枚。
スナップは、大仰なことを考えず、小市民をあまんじて、自分の家の周りを撮ること。
募集要項には、家の周り2キロぐらいなんて書いたけど、
それは都会に住む人間の勝手。
いなかだったら2キロじゃ、畑だけとか。
ぶらぶらRamblerは、自分の周りということで、広い範囲ではなく、どこか撮りたいものがあれば、その場所に行き、2キロぐらいの半径の範囲で撮りましょうということ。
写真はリアルに自分の周りしか撮れないから。

僻地の写真を撮りたければ、へき地に、
戦場の写真を撮りたければ、戦場へ、
アイドルの写真を撮りたければ、アイドルの前に
すべてを日常化して、はじめて撮ることができる。

日常を撮ることは、それを撮る訓練が必要。
珍しい物、事、を撮るだけだったら、単なる記録。
珍しい物、ことを、自分事にしてこそ、自分の記録になる。
写真の記録性は、カメラの記録ではなく、
自分の記録にしたい。
ぶらぶらRamblerはそういう運動です。
ぜひ参加してください。

ぶらぶらRambler 申し込み


撮影期間 4月26日~5月11日(状況により延長することもあります)
申し込み期限 5月11日(状況により延長することもあります)
5月5日、11日、17日に、ZOOMによる講評会があります。
エントリー料 ¥3000
Kindle 写真集、エントリー代、ZOOM講評会を含む。


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