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読んでいない本について堂々と語る方法 ピエールバイヤール

この本は2回読んでしまった。
友人の中には本を全く読まない人もいる。テレビだけ、映画だけ、あるいはスマホに出てくる短い動画だけ。本を読むという作業は実は、集中力と時間がかかる。お酒を飲んでいるとまともに本も読めない。映画やドラマはそうでもない。だったら本よりそっちの方が優れているのかもしれないとも考えらえる。私も最近はアマゾン・オーディブルを聴くのが楽しい。本物を読むよりも好きかもしれない。
で、この本は今の所2025年に読んだ本の中で一番面白かった。まだ1月だけど。2回読む理由は、作者はたくさんのイタズラをこの本に仕掛けてあるのだ。そして、そもそも私はなぜ本を読むのか?を考えさせる本だ。

目次はこんな感じ。

未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって……
1 ぜんぜん読んだことのない
2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
3 人から聞いたことがある本
4 読んだことはあるが忘れてしまった本 

どんな状況でコメントするのか
1 大勢の人の前で
2 教師の面前で
3 作家を前にして
4 愛する人の前で 

心がまえ
1 気後れしない
2 自分の考えを押しつける
3 本をでっち上げる
4 自分自身について語る

「読まない」にもいろいろある。ただこの完璧な非読状態というのは、全出版物を対象として考える場合、じつは近似的にはすべての読者が置かれた状態であって、その意味では書物にたいするわれわれの基本的スタンスだといえる。

そう、誰にとっても読んでいない本が圧倒的に多い。

ここに紹介されているのは
ロベルト・ムジールの小説「特徴のない男」
ポール・ヴァレリーの文芸批評や作家の追悼文

「ある本を深くは読むが、それを位置づけられない者と、いかなる本のなかにも入ってゆかないが、すべての本のあいだを移動する者の、どちらがよりよい読者だといえるだろうか」
つまり本を読むけれど、限られた数の本しか興味を持たない場合、と全体像を得るために、タイトルしか読まない人はどっちが読書家だろうか?

私たちはほとんど「読んでいる」と「読んでいない」の中間だ。昔読んで忘れてしまった本がどれだけ多いことか。そうなると、ほんというのはそういう中途半端な物であり、全てを暗記しない限りはそれらを読んだことがあるかどうかをいうのはむずかしいのである。

Good Will Huntingという映画があるWillは天才で読んだ本はページまで全て覚えてしまう男だ。これは凡人にはできない。すると本のしかじかの箇所に埋没せず、本にたいして適当な距離を保って、その位置確認をすることになる。全体像を掴むのはさらに難しい。自分との位置関係となる。

最近はSNS情報が溢れているから、自分が気持ちいいものを選びやすいはずだ。ということは、これからさらに読書やメディアは、自分の都合のいいものを探してくればいいことになるのだろうか。

うーん、教養ってなんだったけ。

しかし
「重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語ることであるということを肝に銘じるなら、これらの状況を見る目はかなり変わってくるだろう」
そうであるならば、読書は結局自分自身のことなのだ。だから映画でもなんでも同じ。本は読まなくてもいい。

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