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ウィキペディアを書いたら翌朝削除されていた。

父の十七回忌を迎えた。母の三回忌と一緒に実家の寺で十七回忌法要を行った。知人から、あなたの父ぐらい有名な人だったらウィキペディアを書いてみては、と勧められさっそく着手した。


少し前までウィキペディアは、信用ならないから引用してはならない、あるいは、誰が書いているか分からないから、信用ならないなどと言われ研究者たちは見向きもしなかった。今では検索でも上位に出てきて何かと役に立っている。今はChatGPTが半信半疑の眼で見られているがそのうち人々が追いついていくのだろう。


ウィキペディアは他の人も書き加える著作権フリーの文章である。だから記載ルールはかなり厳しい。特にライセンスと著作権侵害には厳格で他の著作と少しでも同じだと削除されることがある。他にもウィキペディア上では個人サイトを作らない、辞書をつくらない、荒らしはしない、管理者と対話しながら作成、修正するなど、さまざまな決まりがある。


父は田舎の中学校から海軍兵学校に入ったがすぐに終戦。高校に入りなおし、大学、そして留学。帰国後かなり大事な研究をして、大学教授として福岡に転任。学術上はかなり影響があった。一方で家では静かで派手なことは嫌いで、整頓好きだった。クラシック音楽を聴きながら読書をしていた。そんなことをつらつらと書いてウィキペディアの約束を確認した上で投稿した。


すると、翌日削除されていた。

「管理者がページ「大河内一雄」を削除しました。理由は定義なし、何者なのかよくわからないため。文章になっているが定義になっていないもの」


さっそく「文章になっているが定義になっていないもの」はどういうことかを調べて書き直すことにした。

父と似たような人でウィキペディアに載っているひとがいないかを探した。父はウイルス学と輸血学の分野だったから、ウイルス学で、父と一緒に研究していた人の名前が見つかった。その人の記事を真似て書き直した。


大河内一雄(おおこうち かずお) 1928年(昭和3年)10月8日-2007年(平成19年)10月10日 は、日本の医学者、ウイルス学者 血清学者。 専門は輸血による感染症。 1963年にバルーク・サミュエル・ブランバーグが発見したオーストラリア抗原を肝炎患者の血液から分離し、B型肝炎ウイルスの発見につながった。この研究は輸血によるB型ウイルス性肝炎感染防止に応用され, 輸血の安全性を高めることに大きく貢献した。その後も成人T細胞白血病ウイルスや、エイズウイルスの輸血による感染の研究に尽力した。九州大学名誉教授。


再度「公開」ボタンを押した。

しかしアップロードしたら今度は「荒らし・いたずら投稿と似た傾向の編集が含まれているため、操作は却下されました」という表示が出た。どこがまずいのだろうか。

編集を続ける間に変な記号等が入っていたようだ。それらをとり除いてもう一度「公開」ボタンを押してみた。するとやっと投稿できた。

今度は削除されないだろうか。

修正して再度出す場合は管理者と連絡をしながらする方がいいらしい。さっそく連絡をとると、すぐにメッセージが来た。

「定義のなかった状態は改善されていると考えます。どうもありがとうございました」


ウィキペディア上ではこういった編集作業はすべて公開される。誰かが不適切な編集をした場合にはそれが公開されるということは、まことに公平でオープンな仕組みである。一方、そこには簡単に嘘を書くことができる。

本当は書くべきなのに、書いていない内容があるかもしれない。


実はこの記事にも書こうかどうか悩んで、結局書かなかったことがある。

「その後も成人T細胞白血病ウイルスや、エイズウイルスの輸血による感染の研究に尽力した」という一文につづく文章だ。


父は成人T細胞白血病ウイルスが、通常の輸血では感染し、加熱製剤では感染しなくなることを知っていた。そこにエイズウイルス感染症が広まっていった。エイズウイルスは成人T細胞白血病ウイルスと同じタイプのウイルスだ。

初期の厚生労働省におけるエイズ研究班の班員として呼ばれた父はできるだけ安全な血液製剤として加熱製剤などを使うべきであると主張し、研究班でも最初はその方向に傾いた。しかしふたを開けてみると、そうはならず非加熱製剤の使用が続けられた。その結果約5000人の血友病患者のうち約2000名がエイズウイルスに感染した。薬害エイズ事件だ。

これが社会問題になると国会にも参考人として呼ばれた。マスコミ等からも注目された。しかし父は「敗軍の将、兵を語らず」と取材はすべて断っていた。


この言葉が今でも耳にやきついている。その時は父が好きな中国の故事で、研究班で自分の主張がとおらず、結局負けてしまったので昔のことは話さない」という意味ぐらいに思っていた。この「兵」とは兵法のことで、日本語でいうと戦略ということだろう。

父が敗れた戦略はより安全な血液製剤を使用することだった。しかしその戦略はとられず、結局多くの血友病患者さんがお亡くなりになった。そのことを父がマスコミに語っても結果は変わらない。大学退官後は、名誉職等には全くつかず血液センターの嘱託として輸血感染症の研究を死の直前まで続けた。最後まで敗軍の将だった。


十七回忌をきっかけにウィキペディアを書いてみたけれど、父は「語らず」世を去った。私が語らなくてもウィキペディアは誰でも編集することができる。誰かがいつかこの部分を加筆するかもしれない。

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