見出し画像

はぐらかされた不安〜THE 1975・Mura Masa・Grimes〜

1月14日、高田馬場のミライザカに行った。
そういえば、ミライザカという居酒屋の存在を知ったのはいつからだろう。料理も酒も安いからよく行っていたのだけれども、あの和民の後続店だと知ったときになんだか嫌な気持ちになった。この安さはどこからきているのかを想像するだけでおぞましい。それでもその店に行き続けている自分もどうかと思うが。

8人席に通されて座ると、横にはでっかいテレビがあった。18時半のニュースは中国で流行したウィルスについて報道していた。当然、飲み会の最初の話題はそれになった。

「昔SARSとかMARSとかあったよね。」
「そんなんあったっけ?」
「こわいねー春節でしょ。観光客すんごいくるじゃん」
「オリンピックとかもね。なんかヤバいよね」

そんな感じで会話はひとしきり続いたあと、生ビールがテーブルにやってきて、乾杯。また別の話題へ。
なんだったっけなぁ。ロバート・ダウニーJr.の顔の濃さがちょうどいい、って話をしたのか。

ともかく、重要なのは「なんかヤバい」という感覚だ。なんか最近ヤバいことがたくさん起こっているのはわかる。だけどそれは飲みの席でなんとなく消化され、なんとなく思い出しては憂鬱になり、また消化されてく。このうっすらとした危機感に対峙するでもなく、無視するでもない。その間に状況は悪化していく。

※※※

こんなことがnoteの下書きに書いてあった。
これを書いた頃は卒業式やライブが中止になるとは思っていなかった。なんなら、いまも信じられない。
なにやらいま世界のあちこちで大変なことになっている。最前線で必死に対応している人たちがいる。自分もそうした情報を恐れているし、憂いている。
でも、100%危機感をいだいているかと言えば嘘になる。どこかで不安を不安として受け入れられないという感覚がある。それは、なんでだろう。

※※※

2019年の夏、THE 1975は「People」で轟音にまみれたギターリフのなかで「wake up,wake up」と叫びながら、世の中への鬱屈を歌った。けれどもそれと同時に、girlsとfoodsとgearsを部屋に持ってこい、とも歌う。彼は怒っている。けれども、MVではマリリン・マンソンの格好をして、ハードコアバンドのパロディのような動きを見せる。


歌詞の内容やサウンド、そして普段のマット・ヒーリーの言動をみていると、これは切実な曲てあるようにおもえる。
でも、思いっきり90年代のパロディをしたMVを観ていると、どこかはぐらかそうとしているのではないか、と思ってしまう。あくまでも彼は現実から逃げているわけではない。
むしろ、少しはぐらかすことで、ポップミュージックとしての妙な納得感が生まれている、と思うのは僕だけなのだろうか。

※※※

2020年の1月にリリースされたアルバム『R.Y.C』の収録曲「No Hope Generation」でMura Masaが表現したかったのは、目の前にある厳しい現実と過去の思い出との乖離だ。

ガレージロックリバイバルを彷彿させるようなギターリフと4つ打ちのビートは、やけに空疎だ。Mura Masaは冷めた声で相反する感情を歌う。
「助けてほしい」、「甘美な夢のなかで生きている」、「とてもリラックスしている」、「希望のない時代を」。

彼は絶望を歌いながら、同時に安らぎを歌う。「酒と銃をくれ/どうやるのかを見せてやる」なんて言葉を本気では思っていない。だって「よく見たらジョーク」なのだから。
絶望しきらない絶望感や、あらゆるものを曖昧にして得られる安らぎは、ミライザカでニュース番組を観ている感覚と似ているのかもしれない。

※※※

2020年の2月に、Grimesがリリースしたアルバムのタイトルは『Miss Anthropocene』だった。

'Anthropocene'とは人新世という地層学用語を指す。いま我々が生きている時代は、人間の産業活動による環境破壊によって地殻が大きく変動した時代として地層に記録が残ることが予測されている。だからこそ、そうした気候変動による変化を最小限に留めなければいけない。というような意味合いで'Anthropocene'は用いられる。
Grimesはその単語を背負い込み自ら'Miss Anthropocene'と名乗る……のだが、アルバムには恐るべき程明確なメッセージがない。彼女が私生活や恋愛において感じたことを、ジャンルレスでありながら大味なリバーブをかけたサウンドと多種多様なエフェクトをかけた声で歌う。
大きなメッセージと、個人の生活の乖離をサウンドと声で煙に巻いているのだ。ミュージックビデオもファンタジー映画のようなテイストだ。



しかしながら、そうしたズレと煙に巻くようなディレクションは「わからないようでわかりやすい」。意図があるようでないようなコラージュ感が実体の見えい不気味さを生み出していく。

このはぐらかされた不安が、なんとなく、いまの自分にフィットしてしまうのはなぜだろう?なにが正しくてなにが正しくないか、この先どうなるのか、どうにもならないのか。
まだわからないから引きこもるしかないのかもしれない。

(ボブ)

【今週のテーマは「前線」でした。】

〈今週の一本〉

「FOLLOWERS-フォロワーズ-」(Netflix)

嘘っぽいセリフ、嘘っぽい町並み、嘘っぽいキャラクター。すべてが「雰囲気」に飲み込まれているドラマだけど、SNSの時代にのし上がってく空虚さを表現するには、そうした嘘っぽさが必要なのかもしれない。

サポートは執筆の勉強用の資料や、編集会議時のコーヒー代に充てさせていただきます