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街から人がいなくなった瞬間、東京に目をつけられる。【#44 静寂】

先月、恵比寿の写真美術館で開催された中野正貴写真展『東京』へ行った。

中野氏が長年カメラに納め続けた東京の風景は、「東京無人」「東京窓景」「東京切片」「東京水景」「東京最甦」などのブロックに分かれており、その中の「東京無人」(TOKYO NOBODY)と題された作品群は、見慣れた東京の街が無人になった瞬間が並んでいた。

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展示の入り口には中野氏による言葉が飾られていた。

ぼくはいつもこの都市を理解する方法として、無人であったり、家の窓からであったり、川の上であったりという一つの制約を設定するが、逆にその囲いからはみ出そうとするエネルギーの方に東京の本質を感じる。

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20年以上過ごした生活圏の変化に気付いたのはいつだろう。集まる人々の数やその多様性、次々とオープンする商業施設に目が行くようになったのはきっと最近のことで、その姿に「エネルギー」を感じないことはなかった。でも、そんな変化に身を任せて歩き回るほどに、うさん臭い印象もぬぐいづらくなっていく気がする。裕福に支えられた消費の殿堂は、昼夜問わず「エネルギー」を発し続ける。
そんな見慣れた街が無人になった瞬間を眺めていくうち、この都市はいったい何のために膨張しているのか分からなくなってきて、恐ろしさすら感じた。

昨年訪れた「あいちトリエンナーレ」で目にした作品を思い出す。
台湾を拠点に活動する袁廣鳴(ユェン・グァンミン)氏の『日常演習』だ。

台湾で防空演習が行われた日の街をドローンで撮影した映像作品は、一時的な退去命令によって人や車がいなくなった街が、一時的に停止している様を映している。
災害が通り過ぎた後のような静寂と、傷痕の見られない建物や道路のアンバランスさは錯覚ではない。人の気配だけが取り払われた街と、背後に流れる飛行機のエンジンともサイレンともつかない音から、目に見えない不穏な何かを感じずにはいられなかった。

瞬間的な無人状態が東京からはみ出すエネルギーを写した写真。
意図的な(しかも有事の訓練という緊張感を漂わせた)無人が、不穏な印象を与える映像。
いずれも、視覚的な静寂が、街という"入れ物"自体の雄弁性を表現していたのだけど、入れ物の主体性のようなことを考えると、表裏のように感じるものが違った。

『日常演習』に感じるのは、明らかな異常事態によって中断させられた生活の残り香だ。訪れたことのない場所だけど、きっと、人の暮らしによって存在意義が与えられていたのだと想像できた。一方、『東京無人』は、日々大量の人が集まりながらも、その一切がいなくなったときも、我々の存在に関わらず、街自体が生きているように見えた。だから、見てはいけない姿を目撃してしまった興奮と緊張が、恐ろしさになったのだと思う。

モノを買って、ライブを見て、電車に乗って学校に通う。自分が東京を利用する主体のつもりだったのが、実際は東京というもう一つの主体と共存していたのではないか。いや、こちらが勝手に依存しているくらいのパワーバランスかもしれない。「東京無人」の誰もいない東京を見つけてしまった気まずさに比べて「東京窓景」のブロックに展示された窓越しに東京を撮影した写真の方が、人と東京の適切な距離感を保っている安心感があった。

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もし、自然災害・人災に関わらず、私たちの東京生活が一時的に中断し、渋谷のスクランブル交差点や新宿アルタ前を空撮したとして、『日常演習』と同様の不穏さを感じるだろうか。強烈な印象を一度受け入れたあと、その映像を眺め続ければ、中身の存在しないはずの“入れ物”が、建設工事や、信号、広告の音声などの活動を再開し、そのまま膨張を続けていく姿が映るかもしれない。不穏を越してホラーだけど、そんなことすら考えさせられるくらい、人を必要としないような人格を感じたのだ。

自然災害だろうが人災だろうが、災いには大小様々な人間の意思や営みを一瞬で剥奪する恐ろしさがある。でも、常に漂っている何かにも、似たようなエネルギーが潜んでいると私は思う。目に見えない何かは、人の常識や流行、期待や諦めや後悔なんかで形を変えていって、当然のことのように思えて無風にすら感じてしまうことが後から振り返れば異常だった、なんてことをきっともたらすのだ。
漂っている何か、それを中野さんはエネルギーという好奇心をくすぐる言葉で記していたけど、「巨大な生物とたまたま目が合ってしまったらこんな気持ちになるだろうな」と想像してしまうようなスケール感から、私はなかなか離れられない。

(オケタニ)
https://note.com/laundryland


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