到達地点はさておき飛距離を測ってみよう
さて、前回の記事で私のクラッシュやパニックには劣等感による焦りが大きなきっかけになっていると書いたのですが:
その話の流れから、先生と一緒に私の劣等感について掘り下げて行きました。
私の劣等感と果てしない改善への欲求は、親に褒められた記憶が全くないことと、良いところよりも悪いところに注目して成長を促そうとする日本の教育から出来上がっているものだろうと推測しています。自分よりもコミュニケーションが上手な人、輝かしい学歴やキャリアを持っている人、高いお給料をもらっている人などなど、自分よりも優れていると思う人と逐一自分を比べては、自分はどうしてこんなにできていないんだ、もっと努力しなければ!と、どんどん自分を追い込んで過労で心身を病んでしまうことが多々。
何をしたって結局私の親は私を褒めないのだけど、もう少しマシな人間になれば褒めてくれるかもしれない、愛してくれるかもしれない、という捨てきれない幻想を30年経ってもまだ抱いていて、早急に何か分かりやすい成果を上げようとする。そしてその成果というものはほぼ自分の本心で求めたものではないのです。
私は内向的でパーティなどの社交の場が苦手なのですが、たまには刺激になって良いものの、月に一度か二度で精一杯。回復に時間がかかります。それなのに以前は、社交的でなければいけない、もっとコネクションを作った方が良いに違いない、と思い込んでヘトヘトになるまで色々なところに顔を出していました。
それを聞いた先生は「素敵な人を見て自分もそうなりたいと思うことは普通だし、成長のきっかけにもなるけど、理想が高過ぎるとそれは逆に君を傷つけることになるんだよ。特に内向的な君が無理に社交的になろうとするのには、外向的な人よりも何倍もの力が必要になるからね」と。
今通っている専門学校でも、授業もコミュニケーションも全てスウェーデン語で、きちんと理解するにはネイティブの人たちよりも何倍も努力が必要なのに、ネイティブの人たちと同じぐらいできていないと恥ずかしいと思ったり、優秀な人の発表を見てまた劣等感に打ちのめされたりして、焦りと頑張り過ぎで辛くなってしまう。自分は全然できていない訳ではなくて、それなりに先生やクラスメイトも褒めてくれるのに、その言葉を素直に受け取ることができません。
「スウェーデン語が母国語の人と自分を比べるのはフェアだと思う?」
そう先生に訊かれて、それは良い比較にはなっていないと思います、と素直に答えました。頭では分かっているはずなのだけど、心がついて来ない。
「例えば君のスタート地点は0、ネイティブの友人は君より2メートル先に進んでスタートしていることになるとしよう。君は努力して4.5メートル地点まで進んだ。ネイティブの友人は5メートル地点へ進んだ。そうすると君の進んだ距離は4.5メートルで、友人は3メートルということになるね。どっちの方が成長が大きいかは明白だ。でも君が見ているのは結果の地点だけ。0.5メートルの差を悔しがっている訳だ」
先生がわざわざ図を描いて説明してくださいました。確かにとても分かりやすいし、思えばこれまでだって友人たちにそうやって励ましてもらって来たのに、どうして私は分かろうとしないのだろう?
「スウェーデン人は元々そんなにオープンな民俗ではないし、君も気づいていると思うけど、新しく友達を作るのはそんなに簡単な土地ではないんだよね。その中で地元に根づいた生活を成し遂げようとするなんて、君は元々最初からとても難易度の高いことに挑戦しているんだよ」
移民同士でそうやって励まし合うことはあっても、スウェーデンネイティブの人にあまりそんな風に言われたことがなかったので、先生のその言葉になんだか心底安心しました。うん、私も捨てたもんじゃないよね。
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