見出し画像

幼少期の被害を消化したい

(気分の良い内容でもなく誤字も多いですが個人的な放出のためご容赦。去年夏に記録していたもの)



私には母と妹、継父がいる。私はこの家族が好きだ。
私は小学五年生のころに、処女ではなくなった。相手は継父だった。
私はこの家族が好きだ。今でも好きだ。


長いことこどもが嫌いとまわりに伝えてきた。わざわざ言わんでも良いことをわざわざ公言するのも、なるべくこどもやその話題に触れることを避けるためのつもりで、先手でNOを出す、あまり性格のよくないことをしてる。
現在わたしは26歳で、SNSを開くと友人たちの結婚報告や出産報告、日々の子育てについての投稿も増えてきたけど、それはそういう年だと思うので、特に嫌とも良いとも思わない。

中学・高校と同級生で今でもずっと仲のいい友は、18歳で第一子を産み、今では小学生二児の母になっている。2つ下の妹も18歳だか19歳だかで第一子を産み、今は幼稚園に二人のこどもを通わせている。妹は、つい最近離婚をして、晴れてシングルマザーとなった。

友人との思い出は沢山ある。なぜか夏の出来事を思い出すことが多いのは、友人が夏生まれだからなのか分からないけど、フードコートで何時間も喋ったり、夜通し朝まで遊んだり、映画館を貸し切ってサプライズムービーを流したり、とにかく沢山の思い出がある。そんな友人が産んだ子は、本当に可愛かった。こどもが嫌いでも友人の出産は嬉しいものだった。
妹の子だって可愛い。上の子を見てるとたまに自分に似ていてびっくりする時さえある。
こんなふうに、自分の大事な人が産んだ子はみんな可愛く、同じように大事な存在なんだと、大体のひとが同じようなことを思うだろうなと。

反対に、自分にとってどうでもいい人は、そのこどもも同じように心底どうでもいい。特に感想もなく、ただ興味がない。これは特別おかしなことではないと思うし、私と同じように考える人も少なくないと思っている。ただ幼く小さいだけで可愛いと思うことはほとんどない。煩わしいとは思っても幼く小さいだけで可愛くはならない。だから私は「こどもが好き」なわけではなくて、自分の大事な人の家族のことを、大事に思っているだけ。

私が無類のこども好きじゃないことは、この人生で不幸中の幸いだと思う。


つい一昨日、恋人に別れを切り出された。結果としては別れずに済んだのだけど、それでもそのショックは小さいものではなくて。恋人とは付き合って3年と少し。別れ話の、そのざっくりとした理由は、将来が見えないので付き合っていく意味があるのかというもので、3年間ずっと「同棲はしなくていい」「結婚もする必要がない」「こどもは欲しくない」そう言い続けてきた私に対して問いかけるにはあまりにも正しすぎる内容。反論できることもなく。その通りだわ、ごめん、そうだよね。この3言だけを繰り返し発言するマシーンみたいになった。会話の間ずっと私は、知らん人の住む知らんマンション前でただアスファルトの一点を見つめながらそのマシーンを一生懸命やっていた。
確かにずっと将来の話は避けてきて、話題に上がれば、それはしないと会話を強制的に終わらせていたし、したくない理由を聞かれても、ヘラヘラしながら「面倒だし」「こども嫌いだし」と答えていた。
正直言うと、結婚はしてもしなくても、どちらでもいい。というよりも、前提にこどもを産まないがあるので、わざわざ結婚をしなくてもいいじゃんと思っている。上からで嫌な感じになってしまうけど、同棲や結婚をすることにこだわるなら別にしたっていい。ただこどもを持ちたくないだけだった。
その日初めて恋人がこどもを持つことに強いこだわりがあることを知って、その日初めて恋人から、なぜこどもがいらないのか、真面目な話の中 真面目なトーンで 真面目な顔をして聞かれてしまった。その理由に自分で気付いたのもつい最近のことで、しかもなんとも情けない、それを仮にも私を好いてくれている恋人に対して素直に伝えられるような内容でもなかった。
対話をしようと向き合ってくれる恋人には口を噤んで、誰が読むかも分からない、誰も読まないかもしれないただのiPhoneのメモ書きにひとりで、文字に残そうとしているのだから、私は大概アホなんだなあと思ってる。

こどもを産みたくない理由は。

幼少期、忘れられない出来事がある。
一番古い記憶は、入浴中。当時まだ母たちは籍を入れていなかったので、正しく書くなら「母親の彼氏」になるが、面倒なので継父と書く。多分小学3年生か、4年生だったと思う。この頃になれば、もう親と、まして父親と風呂なんて入りたくなくないのだけど、私が入浴中に後から継父が入ってくることがほとんどで、この時の母親は「今、あの子入ってるから一緒に入っちゃえば」こんな感じだったと思う。
さらに幼い記憶では、継父は入浴中、ドリフターズのいい湯だなに合わせて当時住んでいたボロいアパートの名前を入れた替え歌を歌ってくれていた。そういった「父親らしさ」の記憶が残る私は、後から浴室に入ってくる継父のことを「まだ私のことを入浴も一人でままならないこどもだと思っているんだな」と納得していた。
そういった毎日の入浴が続くうちに、だんだんと違和感を覚えることが増えた。継父は私の髪の毛を洗い、身体を洗う。身体は最初、ボディタオルで洗っていたはずなのに、いつからか素手にソープをつけ、素手で私の身体を洗うようになる。いつからか局部は入念に、素手で洗うようになる。なぜか分からないが、これがすごく嫌だった。身体を洗われてる最中どんな顔をしていたらいいのか分からなかったのを覚えている。身体を洗われているだけ、ということに日々落ち込んだ。そんな入浴がいつまで続いてどう終えたかはあまり覚えていない。そのほんのりとした異常が、はっきりとした異常に変わったタイミングもまた覚えていない。

継父は、土日になると必ず車を出し、家族を連れ公園に行き、アスレチックや飛行機のラジコンなどを買い与え遊ばせてくれた。誕生日やクリスマスなどのイベントには必ず家中を飾り、宝探しのようにプレゼントを隠し用意してくれた。バラエティ番組で見た企画を家でもやろうと回転寿司のように回る水餃子を手動で動かした。惚れた女がたまたま連れていただけの、血の繋がりのないこどもに対し、精一杯のコミュニケーションをとってくれていた。

継父は、夜になると私の布団に移動してきて、目を瞑ったままの私の身体を触った。旅先の宿では私と二人になったタイミングで私の手のひらに射精した。ある時は私の顔にものを押し付けた。自身のものを私に握らせ動かした。私の股に顔を埋めた。私の口に押し込んだ。私に無理矢理挿入し腰を振った。すごく嫌なことをされていることは分かっていた。それを母には言えないと思った。母になぜ言えないのかは分からなかった。

今はもう、それを被害と認識できる。でも当時は、ひどく困惑した。たくさんの楽しみをくれる継父、それと同じだけ嫌なことをされる。いろんなことを考えていた。母は全て知っているのだろうか、妹も同じことをされてるのだろうか、私が拒否をすれば楽しい時間も全てなくなるのだろうか。母がこれを知ったら私を嫌いになるだろうか、継父のことを嫌いになるだろうか、とにかくいろんなことを考えて、わりと長くこんなことが続く。被害を受けどれだけの時間を過ごしたか、もう覚えてないけど、いろんなことを長い間考えに考えまくっていたにも関わらず、これまで一度も頭に浮かばなかった反撃を咄嗟ですることになる。

相変わらず夜になると継父が部屋に入ってきては約束かのように私の横に転がり始める。ああ今日も来た、嫌だなあと思ったのが先だったか、後だったかも分からない、私は布団のそばにあった週間少年ジャンプで力いっぱいに継父の顔を叩いていた。何度も叩いた、と思っているけど実際は4、5回くらいだったかもしれない。思い切り顔を叩いたところで、なにか怒鳴られ、なにか怒鳴った継父はそのまま部屋を出ていった。週間少年ジャンプを両手でしっかりの持ちながら、ああよかった、今日はもう一緒に寝なくても良いんだなと思った。これがあってからは、継父から身体を触られることが少し減った。少し減った代わりに私の中にひとつ感情が増えた。
「反撃」をした後の私の頭の中は、これまでが不安や恐怖、悲しさで占めていたものから、すごくシンプルな怒りに変わっていった。なんで私がこんなことをされなければいけないのだ、そもそもコイツは誰なんだ、家族じゃないくせに父親ぶりやがって。

でもまあそういった激りも長くは続かずに、先にも書いたけど、私は家族が好きだった。母のことも、妹のことも、変なことをしてこない時は継父のことも好きだった。そして当時、母だって妹だって、継父のことを好きだったはず。この状況を変えたくても、みんなが嫌な気持ちにならず解決するために、どういった選択肢があるのか分からなかった。
15年以上経ち26歳になった今なら分かるのだが、そんな解決策なんてのは最初からない。思い出すたびに、幼少期の優しい私を、引っ叩いてやりたい気持ちと、抱きしめてあげたい気持ちでいっぱいになる。

こうして悲しんだり、怒ったりしているうちに、私の中には、こうした生活を変えられないことに対するストレスが溜まっていく。ストレスはあっても、家族みんなで食卓を囲み夕飯を共にするし、元気に学校に登校しては帰宅してから今日のあれこれを楽しそうに報告する。ただなんとなく、家族全員が寝てからじゃないと、自分が寝ることは出来なくなっていた。話は変わるけど、この頃の夜更かしからインターネットに出会うまでは早くまんまとその虜になっていく。当時の2ちゃんねるやニコニコ動画(仮)にはキラキラしたものがいっぱい詰まっていた。もちろんかなり美化してる自覚もあるけど言っておきたい。あの頃のインターネットはよかった。

話を戻し、こういったストレスの中、どうにも抑えきれない怒りや悲しさの中、死ぬか殺すかしないと終わらないと思った小学5年生の私は、就寝中の両親の部屋に入り、キッチンから持ち出した料理包丁を手にして、布団ごと継父目掛けて振り下ろす。

人ってのは思っていたよりも硬く作られてること、自分には思っていたよりも力が弱かったことが幸いして私は継父を殺さずに済む。

書いて良いのか分からないのでぼんやりとした書き方をするけど、継父は打撲に近い怪我と多少の出血で済んだ。瞬間の継父はなにをされたのか分かっていないが鈍い痛みに声を上げ起床、隣で眠る母もその声に起こされる、私は一拍ほど置いてぼたぼたと涙が出た。さらに二拍ほど遅れて継父の怒鳴り声。大人を舐めるのも良い加減にしろよと言われた。母は何かを怒鳴りながら私のことをかなりの力で引っ叩いた。この母からの一発が、その後ずっと辛かったのを覚えてる。

その日の後のこともほとんど覚えてないけど、私は母と寝て、翌朝普通に登校する。多分、母が継父をなだめ、母が私をなだめ、部屋を離れたんだと思う。継父も普通に仕事に出ていた。母からは何も言われず、何も聞かれなかった。同時に、母には助けを求めてもダメだと感じて、この時の母に対する思いが、思い出せる限りの幼少期の出来事の中でも一番悲しかった。私は誰になんて助けを求めどうして欲しいか、さらに分からなくなっていく。どうしたらいいか分からないまま初めて頼った大人が、当時の担任教師だった。継父を刺して失敗した翌日の学校で私は初めて大人に話をした。家に帰りたくないこと、継父に何をされているということ、母や妹が気づいてるのか分からない、自分も正直どうしたいのか分からないことなど。包丁で刺したこと以外は多分話したと思う。担任教師の動きは早く、私の家は学校から見えるすぐのところにあり歩いても40秒ほどだったが、その日の授業が終わるとすぐに、2学年下の妹と共に担任教師の車に乗せられ、自宅の前を通り過ぎ、30分ほど走らせたところにある児童相談所で降ろされた。担任教師からは、簡単な説明をされたはずだが妹もいる手前私は(妹が聞いてるから変なことは言わないで)という気持ちでいっぱいだった。ただ、担任教師からあ、これからのことを考えるから待っててねと言われた。妹と二人、なんだかよく分からない場所に連れられ、ここで寝泊まりをするよと部屋や脱衣所やランドリーの説明を受ける。妹は家に帰れないということだけ理解し泣いていて、かわいそうだった。私は、とんでもないことをしてしまったと思った、おおごとになってしまったと。

そこから、両親や担任教師がどんな話をしたのか、どういった動きがあったのかは何も知らない。
児童相談所に来て3日ほど経った頃に、妹だけが帰宅した。私は一人家族と離れて、この児童相談所で小学校卒業間近までを過ごすことになる。


こどもを産みたくない理由にはほとんど関係ないけど、この児童相談所、正しく書くと児童相談所という名前ではなく確か「やかた」と呼んでいて、ここで過ごした約1年は、結果としてとても楽しかった。施設内で出来た友人に退所が決まるとわんわん泣いたし、同じように自分の退所日にも、友人と抱き合いわんわん泣いた。当時私は11歳で、同い年の男の子がおり、私たちが一番年下だった。一番上には18歳の女の子が一人いて、あとはほとんど中学生だった。私と同じように家庭環境が理由の子もいれば、素行の悪さから施設に入れられた子など様々で、一番上の18歳の女の子は、実の父からレイプされ二度と家には帰らないと、この施設で生活の全てを身につけるよう過ごしていた。私がここに来た理由をふんわり話すと、その18歳の女の子は私のことを抱きしめて泣いてくれた。施設では季節ごとのイベントが用意されていたり、日替わりで回ってくるおやつ当番、自由時間に上の子に教わり覚えたチェスやポーカー、施設から脱走を図る子、大暴れする新入り、全部が面白く楽しかった。施設で過ごした友人たちが今どこで何をしているか知る術もないけど、私の中では温かい思い出として今も残っている。

私には児相から付く担当が一人と、別で面接士が一人付き、施設に入所して数日は医師による診察や面接士による当時の状況についての聴取が行われた。人体の絵が前面 背面とあり触られた部位に丸をしていく。行為がリスト化してあり自分がされたことにレ点を入れていく。診察では動く椅子に座らせられ、局部に器具を入れられる。必要なことだと分かっていても、なんでまたわざわざこんな恥ずかしい思いをしなければならないのだろうと思った。週に一度、訪問者との面会があり、担当と、たまに面接士が同行し、毎週面会に来た。変わりはないか困ったことはないかこの場所には慣れたかなどを聞かれる。それなりに順応力のあった私は既にそれなりに楽しんでいたので、割と元気に対応していた。ここに連れてきた担任教師は二週間に一度、必ずケーキを持って面会に来てくれた。クラスの様子や、中学に進学してからのことなど、私が退所に至るまで変わらず面会を続けてくれた。今思い出しても、優しく熱心なひとだと思う。当時50代くらいのオバチャン先生だったので、今はもう教師は続けていないかもしれないけど、健康でいてくれたら良いな。

入所して半年以上経った頃に、母との面会が行われた。継父を刺した翌日、学校から帰らずにいきなり施設に来たので、その日の朝見送られて以来、一度も顔を合わせることなく半年以上経っていたことになる。久々に母に会った時は、寂しさや申し訳なさで、顔を見た瞬間泣いた。母も、私に謝りながら泣いていた。母が、私に謝罪し泣いてくれてる、もう母は継父の味方ではなく私を守ってくれるんだと、そう思って嬉しかった。初めての母との面会日は、外出の許可が出たため施設近くのバス停からバスに乗り、駅まで出てタパスタパスでランチをして、カラオケに行ったり時間いっぱいを母と遊んで過ごした。それからはたまに、母との面会が予定に入るようになった。

施設での過ごし方は約1年大きな変化はなく、自分の生活はこれなんだと慣れるのも早かった。なぜここに居るのか、いつ帰れるのかももう考えなくなっていた。明日の自由時間には誰と何しようとかテレビは何を見ようとかを考えながら明日も当たり前のようにここで過ごす気でいた、ら、急に明後日に退所になるからと施設員から伝えられた。私が家に帰れるということは、もう家で継父に何かされる心配がなくなり、母や妹と一緒に暮らせることを意味していたが、それよりもここで暮らすみんなと離れる寂しさの方が上回り、退所までを泣いて過ごす。退所日にはお祝いのようなものが開かれ、母はこの日初めて私がどういう子たちと過ごしていたかを知り、施設を出てからの車の中では、退所の寂しさに泣く私に対して安心したかのようななだめ方で接してくれていた。久々に帰る自宅には、継父の姿はなかった。


しばらく母と妹の3人で暮らす日々が続き、その間妹はもちろん、母も、被害のことや、私が施設で暮らしていた間のことを話したりはせず、何事もなかったように日々が過ぎた。ある日、私が学校を終えて、一人家に帰り、母たちが帰ってくるのを待っていた。当時家にノートパソコンがあり、以前と変わらず、2ちゃんねるやニコニコ動画を見て時間を潰していた。家のチャイムがなり、ドアを開けると継父の姿があった。
もう二度と顔を見ることはないと思っていたため、びっくりしたが、そのままドアを閉めることは出来ず、どうしたの。と声をかけると、継父は玄関先で土下座し、許してほしいと言った。今思い返せば、小学生のこどもに対し土下座して謝るなんてプライドのある大人にしてみると大変なことなのかもしれない。いや、小学生相手だから大層なことをして見せれば許してもらえると思ったのかもしれない。当時の継父の心境は分からないが、私は許す許さないよりもまず「この件を母は許し、謝罪の機会を与えたのも母なのか」が気になった。継父が無断でこの家まで来て、独断で私に謝罪をしてる可能性も確かにあったが、どうしてもそうは思えなかった。母は継父がしたことを許し、母は継父に対し私へ謝罪することを許したんだと。同時に、母が守りたいものは私だけでなく、私や継父を含めた「家族」の形なのだと思った。
しんどかった。
これも私が勝手に想像したことで、母の真意も分からない。母がこの件をどう感じどう処理したのか、私には聞く勇気がなかったので、15年以上経った今でも、当時の家族たちの心情は分からないまま。聞く勇気がないということは、自分で想像し、自分で処理するしかなかった。
私は、家族とどうしていきたい明確なビジョンなんてなかった。
小学生そこそこの児童が今後の家族ビジョンなんて持ってて当たり前なのか、私はそうじゃないと思う。今になって考えられるのは、母子家庭で二人の子を育てていくには厳しく、反省しているのであればその継父の援助も欲しかったのかもしれない。ただ、この大人を許す許さないの選択さえ自分でさせられる、どちらの選択をすると今後はこうなっていくなんて小学生に考えられるものだったのか、今26歳になった私にはこどもにそんな選択をさせるのは酷なんじゃないと思う。母は、何を考えていたんだろう。

私が、今目の前で土下座するこの大人を許せば、継父も、母も、望んだ形になるのか。
小学生の私は、自分が何が嫌で、何が許せないかに蓋をして、誰が何を望んで、どういう形に収めるかを考えた。その日、継父に対して「もう大丈夫だから、いいよ」と伝えた。間も無くして、また、4人暮らしが始まる。


「家族」が再開してからは、もちろん継父から何かをされることはない。風呂も一緒にはならない。寝る部屋には継父は入ってこない。もうあんな気味の悪いことは起こらない。ただ普通によくある「家族」が狭いアパートで生活しているだけ。休日は「家族」で出かけ、誕生日は「家族」で祝い合う、特別変わったことは何もない、本当によくある「家族」になっていく。私は中学に上がって、受験を経て高校に上がる、テンプレのような悪さを覚えて、高校は卒業せず、そのまま20歳で成人を迎え、よくある普通の家庭の中で少しずつ「児童」ではなくなっていった。普通に会社員になり、休日は友人や恋人と過ごす「大人」の一人になっていった。


小学生の自分の身に起きた出来事が嘘かのように、私は幸い男性恐怖症なんてことにもならず、当事者である継父と極めて良好な「家族」関係を続けている。中学生から26歳の今までの生活の中、たくさんの感謝がある。あんなことがあっても、感謝の気持ちを後乗せ出来ている。フラッシュバックなどもない、身に刻まれた分かりやすいトラウマは残らないで、私は大人になった。それはもしかしたら、施設や職員、担任教師、また両親の見えない努力とケアのおかげなのかもしれない。
しれないが、ただ、私の中では決してなかったことになどならない。そうでなければこれを書いていない。

俗にいう「ロリコン」と呼ばれる人たちに対しとてつもない嫌悪感を抱くようになったのは、間違いなく過去の経験が認知に影響をしているはずで、私が既にそういった人たちの性的対象になるロリではなくなった今も、ロリコンに対して過剰に反応してしまう。少なくとも児童に性的興奮を覚える人が一定数いる中で、自分が産んだこどもが、その加害の対象にならないとは言い切れない。こんな可能性を言い出すと全てに当てはまってしまうのだけど。車に轢かれる可能性だってゼロじゃない、通り魔に刺される可能性だってゼロじゃない、隕石がピンポイントで直撃して死ぬ可能性だってゼロとは言い切れないのだ。そんなことを重々分かっていても「性被害に遭ってしまったら」この考えから抜け出せない。何よりも、その時にその子をどう助けてあげたら良いのか、私には分からない。

少なくとも担任教師は出来うる限りのことで私を助けてくれたし、施設で行われる生活の全てが私をケアしてくれていたのかもしれない、その後の母の対応も適切かはよく分からないが結果として私は、今の「家族」の形で波風たつこともなくこの歳まで生きてきたことを後悔していない。今の「家族」を私は好きでいれてるから。ただ、これは、自分で認めるのがすごく嫌だったのだけど、こんなことに気付きたくなかったのだけど、私は多分ずっと「この「家族」たちの仲の良さや楽しさ嬉しさは全て、幼い私の我慢の上に成り立ち、幼い私の優しさの上に成り立っている」と、思ってしまっている。

私が何も言い出さなければこの「家族」は続くし、私がこの「家族」の中で忘れたふりをし続ければみんなが楽しく暮らせる。許す術も許さない術も知らなかった幼い私に代わって、今大人になった私が一言「一生忘れない」と言えば途端に終わるんだぞと、ずっとそんなことを思っている。15年以上経った今でも、私だけがあのことを忘れられず、私だけが許せていない、それでも私は家族が好きだから、今更この「家族」どうこうしてやる気持ちも全くない、ただずっと、じんわりとした苦痛の中で、これからも小さく我慢し続けていく。これがたまにちょっとだけどうしようもなくしんどい。何よりも自分が好きな家族に対し怒りを覚えること自体が、自分で悲しい。男性恐怖症やロリコン嫌悪よりも、家族コンプレックスを少し拗らせちゃってる。

こうした幼少期からの出来事を、じゃあどう解決してれば今ラクなのか分からないけど、少なくともまだ私は、15年も前のことをいまだに処理できず怒り悲しみ悔しがりながら泣いたりする。そんなに前の出来事を思い出して泣けるもんなのかぁとびっくりする。別にもう「家族」をどうこうする気も継父に復讐する気もないのになんで、私はまだ助かっていないんだろう。どうなれば私は助かったことになるんだろう。もう今私以外が丸く収まっているのに、私は誰のせいで今も苦しいんだろう。
誰のせいで。誰のせい、我慢をして、優しくあろうとした、あの時の私のせいなんじゃないか?

誰のせいと言われればもちろん発端には加害者がいた。加害者である継父がいて、被害者である私がいて、そのどちらも守ろうとした母がいた。側から不気味と思われても私たちは今、仲良くやっていて、私はもう、この仲の良い「家族」を壊すつもりもなく、母も継父を許し、継父は反省している。私はまだ何が許せないんだ?多分、幼い自分を、どうしようもなくこどもだった自分のことを、許せていないのかもしれない。



私は、別に、こどもが嫌いなんじゃなくて、酷いことをされても抵抗できない、弱いし無力なこどもの自分が嫌いなんだった。大人一人も刺し殺せず、かといって一人家を出ることも、実の母に助けを求めることも、何にもできなかった自分の弱さが嫌で憎くて堪らないんだった。なぜ抵抗できない人を殺せない家を出れない助けを求めれない、何もできないのか、それは私が幼いこどもだったから。そんな、憎くて堪らない嫌いな自分を思い起こす、同じようにか弱いこどもを見るのが、辛かっただけなんだ。私、あの時のこどもの自分が、めっちゃ嫌いなんだ。15年以上、許せていないのは、継父でも母でもなく、力を持たないこどもだった私のことだったんだ。


こどもが嫌いでこどもを産みたくないんじゃない。生まれてくるこどもも、今私の周りにいるこどもも、みんな私と同じ思いをして欲しくなくて、ただ本当に守られていてほしいと思う。力が弱くて行動もままならないこどもたちが全員、守られていてほしい。私はその守る術が分からない、分からないからいまだに、幼い私に対して、自分で強い嫌悪があるんだと思う。今私が自身の子を守るために唯一出来ると思っていることは、ただ産まないだけしかない。私はいつか、なんにもできないこどもだった自分のことを許してあげたい。こどもの私を今からでも、大丈夫、よくやった、よく耐えたと言ってやりたい。抱きしめてやりたいし、もう継父にも母にも私にも傷付けられることのないよう、私の中で安全に守ってやりたい。私がまず守ってやらなきゃいけないのは、こどもの頃の私だと、これを書いていて思った。こどもを、産みたくないわけじゃない。いつかこどもの私を許して好きになれて、守り抜いていけたら。それまでは、まだ産めない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?