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夜間飛行を買った日

いつもより人の少ない休日昼過ぎの銀座を早足で歩いていた。銀座の街にふさわしくない、ユニクロと無印で構成したカジュアルな格好でも臆することなく歩くことができるのは、アメリカ製の無骨なサングラスの下をシャネルとディオールとランコムで武装しているからである。

これと言って明確な目的があるわけではなかった。ただなんとなく、気分を変えるために香りものが欲しかった。

まずはジョーマローンでウォームアップ。インテンスシリーズでウッド系のものをいくつか試すが、今の気分にはいくらか軽すぎる。店員さんが声をかけてくることもなかった。(その後新発売のラベンダーシリーズを見ていたら声をかけられたので、そっちを売りたかったんだろうなと思い、ムエットだけをもらってから離れた)

シャネルやディオールに寄り道しつつ、ゲランのカウンターへ向かう。新発売のリップを眺めていたら、ベテラン感のあるBAさんに声をかけられた。しばらくリップの説明を聞いた後、香水を探していることを伝えて見せてもらう。

最近の流行りであるわかりやすい香水に飽きており、ウッド系で重厚な香りを探していることを伝える。昔からアロマやお香が好きであることも。サンプルとして出されたのはサムサラ、シャリマー、夜間飛行、ミツコだった。そんな説明だけで初見の客にこの香水を出してくるとは、このBAさん、できる…!しかもムエットにつけてくれたのはEDTやEDPではなくパルファム。どれも名前を知っている名香である。そのあとで夜間飛行のEDTもつけてもらったが、最初に試したのが香水であったために、EDTの存在感は霞んでいた。あわよくばメンズフレグランスもためそうかと思っていたのだが、一度試香するとそんな考えも消え去った。

ムエットによる試香でサムサラと夜間飛行の二択になった。この中では対象的な、ウッド系だが甘いサムサラとお香と植物感のある夜間飛行。どっちも好みの香りだった。アットコスメのレビューを見たことがあるので、年齢層高め、香水歴長めの人が着ける香りなイメージがあったが、試してみるとそこまで古いイメージはなかった。むしろこの香りの複雑な重厚さは求めていたものである。BAさんには「最近ではこの香りを好きと言ってくれる人は珍しい」と言われた。気にしない。問題は値段だけである。

時間をおいて試したいことを伝え、ムエットを手にキラキラした空間から撤退する。カフェで休憩して頭を冷やしながら思考する。様々なシチュエーションで、この香りを纏ってどう感じるか。シャリマーはいまいちピンとこなかったし、ミツコは強力過ぎた。サムサラは甘いのにウッディでとても良い香り、ただし自分が着けると考えると…甘美すぎるかもしれない。夜間飛行はお香っぽさとメンズでもつけれそうなスパイシーさが気に入った。

次に香水のイメージ、名前の由来などを調べる。この時点でほぼ夜間飛行に傾いていた。スッキリしたお香のような香りが好みだったし、名前もボトルもかっこいい。

しばらく迷ったあと、最初にゲランの店舗を訪れてから2時間くらい経っていただろうか。もう一度ゲランのカウンターを訪れて、さっきのBAさんに会えたら夜間飛行の香水を買おうと決めた。あの人がいなかったら諦めよう。夜間飛行を勧めてくれたBAさんから買いたい。この機会を逃したら次にゲランの香水を買おうという気分になるのはいつだろうかと考えた。行動は思ったときにしたほうがいい。これも運命だ。次の機会を待っていたら死ぬかもしれない。

再びゲランのカウンターに向かう。すぐにさきほど対応してくれたBAさんと目が会った。「おかえりなさいませ」と言われたとき、もうこの夜から逃れられないと思った。意を決して「夜間飛行の香水に決めました」と言った。

改めて肌に香水をつけてもらい、カウンターに通され、支払いを済ませて商品が来るのを待つ。小さな瓶に不釣りあいなほどの大きな箱の真ん中にしっかりと収められた夜間飛行のボトルがそこにあった。

商品の確認をおこなっている間、近くで作業していた若いBAさんが横目でこちらを見て小さな声で「はじめてみた」というのが聞こえた。俺もだよ。銀座の一角にあるデパートでも、高価な香水が売れるのは稀らしい。

「こんな時期ですから、香りで気分転換したいですよね」BAさんはそう言って、丁寧に箱に収めた夜間飛行を袋に入れてくれた。私もそれに同意した。もともと気分転換に買い物にきたのだ。

「香水を買うのははじめてなんです」私はBAさんに言った。トワレやオーデパルファムは持っているが、いわゆる『香水』(パルファム)ははじめてであることを。

「はじめての香水は、きっといい思い出になりますよ」BAさんはそう言ってくれた。歴史に残るであろう経済の停滞期に、贅沢品を買うのも悪くないと思った。お店が空いていて、良い店員さんに対応してもらえたから。

30mlの小さな香水瓶を買っただけなのに、たくさんの化粧品サンプルやら高級なタオルのセット(いいにおいがする)をもらった。すごい、これがデパコスか(いまさら)

その間も手につけてもらった夜間飛行の香りが変化していくのを嗅ぎながら、気分を落ち着けていた。香水をつけたことがない人は知らないかもしれないが、香水って時間が経つと香りが変化するのです。夜間飛行はつけたてのスパイシーなお香っぽさが、時間が経つとパウダリーな甘い香りに変化する。甘いと言ってもフローラルな甘さではなく草木の香り(水仙?)。徐々に変化する香水もあるが、夜間飛行はスン…と一瞬で変わる気がした。これこそ、香水の楽しみである。

ゲラン様の袋を手に帰宅中、ふと考えた。そういえば自分はサン=テグジュペリの夜間飛行を読んだことがない。

帰宅途中の書店で、夜間飛行を購入した。Kindleでも良かったのだが、ここはあえて物理本にした。なんとなくそちらのほうが情緒があるような気がして。

帰宅して、買ったばかりの香水を慎重に箱から取り出す。職人が手作業で結んだという紐を解いて開封。洗ったばかりの手首に慎重に垂らすと、店頭で香ったのと同じ、お香のような森林のトップノートが広がる。普段、香水は手首にはつけない。強く香りすぎて鼻が鈍るから。しかし、はじめて着ける香水は香りを確認したいので手首に着けるようにしている。

次いで買ったばかりの単行本を開く。古典的名作を纏いながら、古典的名作を読む。なんという贅沢な時間だろう。夜間飛行を読んでいると、手首につけた香水の香りが、古書を開いたときの香りのようにも思えてくる。

あとがきで香水の話にも触れているのを見て、この香水を着けるまで夜間飛行を読まなかったことを幸運に思った。

香りには記憶を呼び起こす効果がある。私にとってこの香水は、サン=テグジュペリのリアリティある文体と、あのとき対応してくれたBAさんのことを思い出させる香りになるだろうと思った。


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