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将棋は人を近づける

以前は将棋を熱心に指していたが、今ではすっかり嫌になってしまった。対局時計の電子音に脅されながらひたすら盤面を睨み続け、負ければ耐え難い屈辱を感じ、勝っても内容を反省するばかり。定跡を覚えても、棋譜を並べても、詰将棋を解いても強い人には敵わない。一体何のためにあれだけの時間と労力を無駄にしたのだろう。

将棋をすれば頭が良くなると言って、子供に将棋を習わせる親が増えているらしい。確かに、思考力と記憶力が限界まで要求される将棋は「頭が良い」人が有利だから、頭が良ければ棋力が高いと言えるかもしれない。しかし、たった81マスの世界における技術は、これといって盤外で役に立つようなものではなく、まさに「逆は必ずしも真ならず」の典型例であるように思われる。本当に頭が良くなりたいのであれば、将棋からは一刻も早く離れて勉強するのが賢明だろう。

それでも将棋をやってよかったと思えるのは、多くの人と出会えたからだ。全くと言っていいほど社交的でない私は、友人や知り合いの大部分と将棋を通じて、残りの大部分とチェスを通じて知り合った。もう指さなくなって随分経つが、同様に今は将棋から離れてしまった人達とも仲良くしている。経験上、将棋が人と仲良くなるための素晴らしい媒体であることに疑いの余地はない。

「棋は対話なり」という格言がある。両者は「お願いします」と一礼して対局を始めれば、一方が「負けました」と投了するまで言葉を交わさない。しかし、盤上で行われる着手のやりとりは対話そのものだ。偶然や隠された要素が存在しない将棋において、公然と示された駒の配置を共通かつ唯一の手がかりとする二人は、敵同士でありながら、一つの棋譜を創造する共同作業者として、深い読みの領域にまで思考を同期させることになる。

ここに人と人を近づける力がある。渾身の一手はうわべだけの言葉よりもよほど説得力がある。初対面であろうと、言葉の通じない外国人であろうと、オンラインで顔が見えなかろうと、盤を挟んで一局を共にすれば、自ずと相手の人となりが見えてくるものだ。

将棋では「礼に始まり礼に終わる」という精神が重んじられるが、決して「負けました」で終わりというわけではない。勝って喜びを表現するなど言語道断で、粛々と一局を振り返る感想戦を終えるまで礼節を忘れてはならない。このような武道とも重なる精神性があればこそ、将棋は安全な出会いの場たりうるのである。


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