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不登校で失ったもの

私は長い不登校を経験した。小学校に入学してすぐ不適応状態に陥り、通っていたのは入学してからの半年だけで、残りの5年半はほぼ全休に近く、中学校に至っては3年間敷地に足を踏み入れることすらなかった。

周囲の不登校への風当たりは奇妙なほど強い。口を開けば学校に行くことがいかに大事か、みんなと一緒に遊ぶべきか、勉強をしなければ将来が危ういかをまくし立てる様は、さながら馬鹿の一つ覚えのようだ。一体彼らのどこに他人の人生に首を突っ込むエネルギーが隠れているのだろう。何故私が登校すべきだと自信満々に言えるのだろう。

大人になってようやく、彼らも不安と戦っていたのだとわかる。「赤信号みんなで渡れば怖くない」と同じ理屈で、「みんなと一緒」という実に虚しい根拠をもとに、自分達は間違っていない、何も心配はない、きっとこれからもうまくいくと信じようとしている。そんな中、一緒に横断歩道を渡ってくれない不登校児は、同一性を原動力として前進する集団に「怖さ」を呼び起こす目障りな存在なのだ。

彼らは本気で相手のためを思って「学校へ行け」「学校に来い」と言ったつもりになっているようだが、実際は自身の不安に向き合えないまま八つ当たりしているに過ぎない。こうして不登校児はみんなの不安を肩代わりする存在として否定され、徹底的に自信を奪われていく。

私が不登校によって失ってしまった最大のもの、みんなに一番差をつけられてしまったものは、学力でも社会性でもなく、まさにこの「根拠のない自信」だったように思う。不確実性に満ちたこの世界の中で生き抜くためには、根拠のない自信が最強の武器となる。だからこそ、あの頃の自分がそれを明け渡してしまったことが残念でならない。

これは不登校に限った話ではなく、マイノリティの人達に共通する悩みと言えるかもしれない。本来失われる必要のない自信が失われることのないような社会を、私達は作ることができるだろうか。

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