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「セイウチ」が日本語になったとき

「セイウチはロシア語でトドを意味するсивуч(シヴーチ)に由来する」

これは比較的よく知られた豆知識である。どうして「シヴーチ」が「セイウチ」になったのか釈然としないところはあるが、セイウチやトドの生息域を考えるとロシア語に由来するというのは納得できるだろう。実際多くの国語辞典がこの説を採用している。

日露青年交流プログラムの参加者として、ウラジオストクの沿海州水族館を訪れたことがある。圧巻のイルカショーが終わり、次に登場したセイウチは残念ながら芸を披露することなくずるずるとプールの底に消えていった。どうやらこの日は機嫌が悪かったらしい。

普段はちゃんと働くらしいセイウチのミーシャ

セイウチは北極海周辺に生息する海獣であり、このミーシャも元々はロシア最東端のチュコト半島で保護されたものだ。ただし、ロシア語ではこの動物を сивуч ではなく морж と呼ぶ。ややこしいので語彙を整理しておこう。

鰭脚類(ひれのような脚をもつ哺乳類)にはアシカ科、アザラシ科、セイウチ科の3種類がある。そのうちアシカ科は伝統的にアシカの仲間とオットセイの仲間に分けられる。

アシカ:морской лев(海のライオンの意)
オットセイ:морской котик(海の猫の意)
アザラシ:тюлень
セイウチ:морж

そのうちトドというのはアシカの一種である。

トド:сивуч

морж と сивуч は似て非なる生き物であるが、おそらくは江戸時代のある日本人が、前者に「セイウチ」と後者を指すはずの名前を付けてしまって今に至るというわけだ。

水族館からの帰りだったか、ロシア人Aにこの話をした。「日本語にはセイウチというロシア語の сиву́ч から来た言葉があるんだけど、意味は морж なんだよ」と。ところがこれが通じなかった。彼が隣で手を繋いで歩いていたロシア人BとCに「ねえ сиву́ч って名前の動物知ってる?」と尋ねると、即答が返ってきた。

"Си́вуч!"

ハモっていた。日露青年交流だというのに、いつも別の意味の「青年交流」に忙しそうなあの二人にしては驚くべき反射神経だった。

私は「シーヴチ」と発音しなければならなかったようだ。ロシア語の単語はアクセントのある母音を強く、長く発音する。アクセントの位置を間違えると別の意味になったり、通じなくなったりしてしまうのはよくあることだ。その場では「ロシア語のアクセントは難しくて、よく間違えちゃうんだよね」と笑うしかなかった。

帰国後、ロシア語学習者の間では鈍器の名で知られる研究社露和辞典(携帯版)を、こんなもの携帯できてたまるか、と例によってつぶやきながら引いた。すると正しいアクセントは сиву́ч ただ一つであり、間違った発音をしていたのは彼らのほうであることがわかった。私の知る限り си́вуч を認めている辞書は他にも存在しない。ではこの発音は一体何なのか。

Youtubeで сивуч がどう発音されているのかを調べてみると、カムチャツカ地方、ハバロフスク地方、サハリン州など極東では一貫して、アナウンサーさえもが и にアクセントを置いている。

一方、極東以外には у にアクセントを置く話者も見られるが、 このような動画はなかなか見つからない。なぜならロシアで сивуч(繰り返しになるが、これはトドのことである)が生息するのは極東に限られ、それを語るのも極東の人達が圧倒的に多いからである。

си́вуч を「間違った」極東の方言形と言うことはできるかもしれない。しかし彼らにとっては極東こそがトドの本場であり、「正しい」発音のほうがよっぽど奇妙に感じられるのだろう。

思うに、「セイウチ」という言葉を最初にロシア語から日本語に導入した人が実際に聞いたのは、むしろこの「間違った」発音である си́вуч の方なのではないだろうか。もしそうであれば、「セウチ」でも「セウーチ」でもなく、「セイウチ」と不自然にも第1音節が長音であることの説明がつく。

私がこの豆知識を修正するとしたらこうだ。

「セイウチはロシア語でトドを意味するсивучの真の発音(シーヴチ)に由来する」

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