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第25回 フゾドンの墓

こんにちは、阿久根市地域おこし協力隊のチャーリーこと濱田です。
鹿児島に来てから“○○どん“を耳にすることが多いです。
さて、この「フゾドン」というのは不動尊、不動明王のことだそうで。
フドーソン→フドーソン殿?→フドドン?→フゾドン?
どう変化してフゾドンなのかは分かりませんが鹿児島弁ってとにかく言葉を短くするんだなって最近気づきました。あと早口な人が多いような…、方言強めで早口の方との会話はほとんど聞き取れないこともしばしば…泣
さて、このフゾドンの墓は阿久根市大川の大川小学校のそばにあります。

大川小学校のフェンス外に道標あり
小学校の脇の歩道を進んでいきます
少し坂を登ると見えてきます

時は藩政時代、お役人が年貢の収納を取り締まっていた蔵入れ所が現在の大昭寺付近(大川)にありました。
年貢を納めていた集落民は病人が出てもおかゆも食べさせられず、不平不満があっても抗議をすれば切り捨て御免とされる厳しい生活を強いられてた時代です。
そんな中で、あろうことかお役人は年貢のもみをマスからわざとこぼし、それをくすねるという不正を行なっていたのです。
当然、集落民の間で不満が広がります。

そこに英彦山(ひこさん・福岡県と大分県にまたがる山で日本三大修験道の一つ)の山伏(修験者)が通りがかり、お役人に対して「マス取りの不正なやり方をしており、集落民の間に不満があるので改めるように」と忠告をします。
忠告を受けたお役人の武士は馬の手入れ中で「その話は手入れが済むまで待ってくれ」と訴えるも、山伏がこれを待たずにホラ貝を吹いて立ち去ったため、武士は大いに怒り山伏を追いかけ首を跳ねました。その首は川を越え、現在のフゾドンの墓の地まで飛んでいったそうです。

集落民の一人が、首が落ちた場所に墓石を建て、切られた山伏を供養したのがこの「フゾドンの墓」です。
ではなぜこの山伏は「フゾドン」と呼ばれるのか。

山伏の姿は、兜巾(ときん)を被り、篠懸(すずかけ)を着、わらじを履き、笈(おい)を背負い、錫杖(しゃくじょう)を持っている。この姿は不動明王と一体になることを意味している。

フゾドンの墓(阿久根市教育委員会)
イメージしやすいように山伏を描いてみました

山伏の姿は不動明王と一体という事からフゾドンと呼ばれたのですね〜。
いかがでしょうか、フゾドンの墓の由来。
集落民の思いを汲んで忠告したにも関わらず首を跳ねられてしまった山伏が無念でなりませんが、話をするときは相手の状況も汲んで落ち着いて話し合うべきでは?とも思う濱田です。何より不正はけしからんことですね。

☝️フゾドンの墓の詳細地図はこちら

👇すぐ近くに矢重坂(やじゅざか、やつざか)という薩摩街道の原風景を留めた坂もあります。

この坂を登っていくと
舗装されずそのまま残された薩摩街道の風景


ぜひ矢重坂も併せて訪れてみてください💁‍♀️
※足元は石がゴロゴロして歩きにくいので歩きやすい靴で!

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