見出し画像

第29回 平家物語の登場人物「俊寛僧都」の名が残る井戸 僧都川

こんにちは、阿久根市地域おこし協力隊のチャーリーこと濱田です。
脇本小学校から少し歩いたところに「僧都川(そうずがわ)」と呼ばれる古井戸があります。
僧都川の由来になった人物は歴史的にも有名な人で歌舞伎の演目にもなっていました。

通りから少し下った場所にあります
僧都川と呼ばれる古井戸
案内板

平清盛によって喜界島に流された俊寛(しゅんかん)という僧が今回の主人公。
都の法勝寺の住職の俊寛は後白河法皇のお気に入りで、僧都(そうず)という位の高いお坊さんでした。平家を転覆しようと計った鹿ヶ谷(ししがたに)の変で後白河法皇の手足となって働いたが、この計画は事前に平家方に察知され俊寛は藤原成経、平康頼とともに鳥も通わぬと言われた喜界島に流されました。

その翌年に成経、康頼だけは帰京を許されましたが俊寛だけは一人残されることに。
俊寛に仕えていた有王丸(ありおうまる)は成経、康頼を連れ帰った船頭を訪ね、喜界島への巡視船が出る薩摩へ向かいます。

薩摩の地に辿り着き、喜界島へ渡るには小舟を雇うより方法がないと分かると漁民が多い英祢(阿久根)に引き返し、浜辺で船を出してくれる漁夫を尋ね歩きました。すると一人の漁夫が有王丸の孝心に感じ俊寛の救出を引き受けてくれました。

そうして喜界島から俊寛を助け出した船は再び英祢へ戻りしばらくの間、俊寛を温かく世話をしたそうです。弱っていた身体も健康を取り戻した俊寛は村人たちが水不足により不自由な生活をしていることがわかり水源を探し求めました。するとある葦の群生地に湧き水があることを直感し、この地を井戸にしました。

これが僧都川の始まりで、川とは湧き水のことを指すそうです。村人たちは湧き水を発見した俊寛僧都の僧位を取って「僧都川」と名づけました。
(参照:阿久根のむかしばなし)


俊寛はあくまでも追われている身であり長く同じ地にいることはできないと考え、同宗の寺院を探したところ山門院(現在の野田)に山内寺があることを知りそちらへ移ることにしました。野田町にある山内寺の跡には俊寛僧都の石碑が今も残されています。

野田町にある山内寺跡
石碑に俊寛僧都の名が刻まれています
出水市の案内板

俊寛について調べると喜界島で亡くなったと出てきますけど諸説あるんでしょうね。彼に関する言い伝えが他の地にもあるようです。

☝️僧都川の場所はこちら

☝️俊寛僧都碑はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?