完成できる日が今から待ち遠しい

 一日大体四百文字。四百文字を超えたら、どんなに調子が良くてもなるべくそこで終わらせる。逆に、どんなに面倒でも四百文字書いたら今日の分はオッケー。私が出会った「三十日間ライティングチャレンジ」の主な概要だ。

 今、私はこのやり方に倣いながら、ある小説を書いている。今日はその話をしたい。


 創作は好きだった。ただ作品を完成させたことはなかった。何かしらの台詞だったり、場面だったりがピコンと思い浮かんだら、それを書いて満足していた。書きたい台詞や場面を書くために、物語の設定をちょっとだけ考えたりして、無理やり終わらせたり、終わらせずに放置して忘れたり。プロットを考えるだけで満足してそもそも手に付けなかったり。

 そんなやり方でも私は書くのが好きだったが、いろいろあってからは楽しめずにいた。楽しくないという気持ちのほうが強いのに、まだ楽しめるはず、まだ好きなはずだと言い聞かせ続けて、みっともなく創作にすがっていた。創作は私が自分に自信を持つことができた、唯一の得意分野だったから。


 現在はそんなメンヘラ彼女期間を抜けて、何も考えず、何も書かずの日々を送っている。小説もろくに読んでいない。そんな怠惰な私だが、ここ二年ほど、Twitterで知り合った友人との創作話に花を咲かせていた。俗に言う『うちよそ』という文化だ。お互いに創作でキャラクターを生み出して、その子同士を絡ませてお話を発展させていく、いわゆる内輪ネタの遊び。

 何回かの通話を経て始まったその『うちよそ』の物語も(以下本編)、なんやかんやで三年目に突入している。主な脚本はお相手さんで、私は本編の消費者として楽しませてもらっているだけだ。私が考えたキャラクターの解釈も、もはや私より相手のほうが完成度が高いので、ほとんどまかせっきりにしている。

 彼女の考えるお話はすごい。絶対的なハッピーエンドはなくて、誰かしらが必ず傷を負う。だけどその傷跡を抱えて、エンディングのその先をキャラクターたちは生きていく。その世界に生きる一人の人間たちを、彼女はいきいきと、美しく、かっこよく、時に残酷に、醜悪に描き出す。人間はきれいなところばかりではなく、矛盾をはらんでいるからこその強さを描く。そんな彼女が話してくれる物語は、どれもこれも息が詰まりそうなほどに素晴らしいものだ。

 それは本編も例外ではなくて、私はずっと消費者として彼女の描く本編を楽しんでいた。消費者としてお話を聞かせてもらえる立場に、満足していた。


 書こうと思ったのは最近の話だ。彼女は本編をオリジナルとして手直しをして、一つの作品として完成させようとしていた。その話は以前から通話中に聞いていたし、私はその完成をずっと楽しみにしていた。今もしている。私が生み出したうちの子を、私以上に魅力的に描く彼女が、一人の人間として本格的に形にしようとしてくれる。私はそれが何よりもうれしかったし、特にこれといって抵抗もなかった。ずっと話していたお話が一冊の本として出来上がる日を夢見ながら、彼女との交流を続けていた。

 そんな日々を続けていて、ふっと思い至る。私も本編を書いてみたいと。これは私なりの創作に対するけじめなのかもしれないと、今となっては思う。彼女の脚本で描かれる物語を、私はただ楽しむ視聴者兼読者でしかなかった。だけど、彼女が本編を彼女の手で完成させたとき。それは私たちが様々な可能性を考え、私がいろいろな解釈を考えた本編の「答え」が定まってしまうときなのではないかと。そう思ったとき、なんだか無性にもったいないような、惜しいような気持になった。私の中には、私が考えていた解釈の本編がある。それはメイン脚本を考えて話してくれた彼女の物語に依存しているが、私には私なりの解釈をした本編が存在している。本来物語の解釈は自由なもので、一つの物語をとっても人間の数だけその解釈は存在する、というのが私の考えだ。(これが本当に自分のものなのか、いつか聞いた彼女の考えを自分のものだと勘違いしているのかはわからない)

 だからこそ、彼女の解釈した物語が、ただ一つの「正解」とされるのは納得できない。彼女に対する対抗心か、それともほかの何かなのか。とにかく私は、私から見た、私の考えたキャラクターの視点から描く、あの壮大な物語を描きたいと。さいわい彼女もこの思いつきを受け入れてくれて、書いた分を見せる度に冷静な感想と分析をしてくれる。ありがたいことだ。


 無謀なことだとは理解していた。何しろ三年分の熱量だ。しっかりエンディングに持って行った本編から始まり、分岐から生まれたIFルートも入れたら、物語の数は膨れ上がる。しかも考えたのは私ではない。私は彼女の考えた物語を「借りて」書いているに過ぎない。

 だけど難しいのはもっともだ。だって長いこと何も書いてなかったのだから。言葉がなかなか出てこないし、自分なりに解釈した本編を、自分なりのプロットにまとめ直して、そしてそれをうまいこと形にしなきゃいけない。借り物の物語でも、生みの苦しみは変わらないのだなと痛感している。

 とりあえず書く習慣だけでも作ろうと思い、冒頭に書いた「三十日間チャレンジ」を始めてから、少なくとも一週間以上は経っている。これだけでもすごい進歩だ。こんなに長い間一つの物語に向き合ったことなんてない。絶対にどこかで投げ出して、飽きて、忘れていく。それが常の私からしたら、進歩以外の何物でもない。


 自分で決めたゴールに、私はたどり着けるのだろうか。少なくとも意味はあるんだと信じて、私は今日も書いている。



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