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朝ごはんに桃ひとつ

台所に置いていた桃は、時折ふわっと甘やかに香った。皮をむくと、その香りがなくなってしまうのがさみしい。でもそのさみしさも、果肉のあふれる瑞々しさを手に受けると、ぜんぶ帳消しになる。皮をむいたらまた別の香りと手触りがやってきて、その桃にしかない感触を、味わうようにナイフを入れる。果肉を全部切りとったあとの芯の部分を口に含んで食べるのが、わたしの楽しみのひとつで、いつだったか、「芯を食べるのがおいしいよね」と何気なく言ったら、「そんなこと言ったら産地の人に笑われるよ!」と、妹にたしなめられた。

祖母と伯母は、切り分けたあとの桃の芯を、おいしそうに食べていた。腕を伝う果汁もおかまいなしに、シンクにかがみこむようにして。あんまりおいしそうに見えたから、幼いわたしも「それ食べたい」とせがんだ。「ちゃんと切ったのあるから、あんたはそれ食べなさい」。祖母も伯母もわたしには一度も芯をくれなかった。大人になって自分で桃をむくようになったとき、わたしも彼女たちと同じようにシンク前に立ったまま、芯を口に含むようになった。これは大人のよろこびだ、と思った。桃を自分でむく人にしか与えられない甘い味。

妹が、そんな祖母や伯母の様子を見ていたかどうかはわからない。ただ、桃の産地で育った人と結婚したから、夏は桃をたくさん食べているのだ。きっと芯のひとつひとつを吸い食べる暇もないくらいにたくさん。「桃は実を食べるもの、芯なんか食べたら笑われるよ、桃がいっぱいありすぎて、だんなさんは子どもの頃、朝ごはんが桃だったんだから」。妹のだんなさんは「桃のみです」と断言した。「のみですよ、桃のみですね、朝ごはん」。

彼のおかあさんは桃を何個むいたのだろう。傷んでしまう前にと、毎朝せっせとむいたに違いない。わたしは想像してしまった。何個もの芯を、皆が家を出たあとの台所でこっそり口にする彼のおかあさんを。本当のところどうだったのかを、もう訊くことはできないのだけれど。

桃だけの朝ごはんを、いつか食べてみたいと思っていたのだった。彼の実家からのおすそ分けをひとつ、むいた。器に盛った果肉を眺めながら、今朝もわたしは芯を食べた。歯にはさまる繊維と、わずかに感じる甘酸っぱさと甘苦さ。やっぱりこれが桃の醍醐味。



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