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ちょこの一枚

「ちょこ」といえば、私はやっぱり「チョコ」やけど。

2月といえば、チョコの消費が最高潮に達する月。もちろん、あの大イベントで。

だが、ここ数年、私にとってあの大イベントは、配る方ではなく、なぜかもらう方だ。今年も職場の20代女子から、
「いつもお世話になってるので・・・」
と、小さな箱をもらった。おそらく4個ぐらいのチョコが入っている箱。

それを照れながら渡す様は、そりゃもう本命の片思いの相手に渡すかのようで、こちらも嬉しいやら、照れるやら、なのだが、ふと思うこともある。
これを渡す相手は、私ではないはずなんだけどな・・・。
でも、来るモノ拒まずの私はありがたくいただく。

そして、昼休みに、いただいたチョコをパクつきながら、テレビでオリンピックのスキー大回転の模様を見ていたら、あるチョコの思い出が出てきた。

冬の日曜日の午前5時。

枕の上で、目覚ましが鳴る。目覚ましを止めて、背伸びをする。
「さぶっ・・・」
あと5分と思って、毛布をかぶる。
「ほら、起きんか!5時になったぞ。行くぞ!」
父が私の部屋のドアを開けて、そう言い放つ。

お父様。そう申されましても、寒いんですが・・・。などと心の中で思っていたら、母が顔を出す。
「はよ準備せんね。お父さん行ってしまうよ」
・・・・・・はーい。

のそのそと布団から出て、部屋のカーテンを開ける。外は見事に真っ白だ。ドカ雪が降った翌朝は、町の除雪車が主要道路の雪をかきわけていく。宿舎の1階にあるわが家から見る光景は「雪の壁」なのだ。

それにしても、なぜこんなに早起きなのか?

スキー場の朝は早かった。いつも7時頃から滑り始めるのが常だったからだ。

それは、私がまだ小学生で、全国を転々として、しばらく雪国に住んでいた頃、
「雪国にいるから、スキーするぞ」
という父の一声でスキーをすることになった。することになったというよりか、させられることになったという方が正しいかもしれない。
運動神経はいい方ではなかったし、部屋で音楽を聴いたり、本を読んでいる方が好きだったので、当時はあまり気が進まなかった。

小学校中学年の私は、まず有無を言わさず4泊5日のスキー教室へ一人放り込まれ、その後も、毎週日曜日は父とスキー場へ通い、ある時はスキー場主催のスキー教室、ある時は父の自衛隊仕込みの生きるためのスキーをたたきこまれた。
生きるためのスキー、そう、リフトを使わず、ひたすら斜面を登って滑って、登って滑って、というのを半日ほど繰り返すのである。私はリフトを使わないこのスキーのことを勝手にそう呼んでいる。

でも、子供の物覚えは早い。
こんなに運動神経が悪い私でも、数週間たつと、なんとか滑れるようになってきて、いつの間にか、コブがある斜面も滑れるようになっていた。

撮った!

「ほら、着替えは入れたね?おにぎりは、この中に入れとくからね。お父さんの分もあるから、お父さんと一緒に食べなさいよ。」
顔を洗って、もそもそスキーウェアに着替えている私に、母がたたみかけるようにそう言う。そして、私の小さなリュックサックに、アルミホイルに包んだおにぎりを入れる。

「ここにチョコも入れとくからね。忘れなさんなよ」
母はそう言っていつも板チョコをリュックサックのポケットに入れた。母としては、万が一、父とスキー場ではぐれて遭難した時のための食糧として、私に持たせていたそうだが、私にとっては違っていた。

一人でどこでも滑れるようになっていた私は、スキー場に着くと、父とお昼休憩の時間と集合場所だけ打ち合わせると、1日リフト券を父からもらい、それを腕に付けて、リフトに乗り込む。

リフトに乗って上がって、滑る。またリフトに乗って上がって、滑る。
いろんなコースを滑るのだが、1時間も滑っているとだんだん飽きてくる。
そうなると、今度はリフトで山頂近くまで行く。そして、リフトを降りて、ちょっと人込みから離れたところで、リュックサックから板チョコを取り出して、ぱくり。
「うまっ!」

そう、母にとっては非常食の板チョコだが、私にとっては山頂でのご馳走だったのだ。もっともあまりの美味しさに、チョコが昼までもたず、昼食時にチョコが欲しいと言って父に買ってもらったことを母に話すと、いつも怒られていた。
「何のためにチョコを持たせたと思ってんの!?」
いや、そうなんだけどさ。

山頂からの景色を眺めながら食べるチョコは最高なんだもん!

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