180615 世界への接近、平田オリザ、ありのまま
人は、世界をそのままのかたちでは認識できない。
なんらかの中間項、それはレンズのような、装置のような、あるいはメディアのようなもの、を通してのみ、世界へと接近することができる。そして、その中間項は、人によって異なるのだろうと思う。
ぼくにとってのそれは、幼いころは文学を読むという行為であったし、いまでは建築をみる(経験する)ことも大きくあると思う。
他にも映画や絵画をみること、走ること、ここにこうして文章を書くということも、中間項なのかもしれない。
いずれにしても、なんらかの中間項があることで、私と世界のあいだに何某かの関係が築かれているように思う。
劇作家の平田オリザさんは、自ら創り出した演劇を、この中間項に据えている。
私は現代演劇の役割もまた、この「私に見えている世界を、ありのままに記述すること」のみだと考えている。
常識や経験といった既成の価値観、あるいは特定の思想や宗教にとらわれずに、少なくとも、それらをできるだけ排除し、後退させる形で、世界をありのままに記述すること。
(平田オリザ『演劇入門』、p.39)
そして彼はこうも述べている。
私は、芸術家がその見えている世界、感じ取っている世界のありようを力強く示せれば示せるほど、観客の側により強い主体性を生むことができると考えている。
(平田オリザ『演劇入門』、p.202)
そうなのだ。
この中間項が既知のものとは異なる様相をみせたとき、すなわち、中間項の先にみえる世界が自明のものではないと私が感じたとき、目の前にあったはずの世界は新しく生成されなおす。
その生成は尊く、ときに残酷で、そしてとても美しい。
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