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180529 1週間、日記、偶然の連帯

お昼にうどんを食べたあと、今日でnoteをはじめて1週間だなと思い、これまでの6日間の日記を読み返す。
書く内容や形式が無意識の前提に囚われているような気がしてきて(食べたものについてほとんど書いてないなとか、朝から出来事を順番に書いているけど他の書き方もありそうだなとか)、少し不自由を感じる。もっと自由に書きたい。

そういえば、と思い出して、図書館へ行き『新潮』2018年3月号を手に取る。日記リレーの特集号。365日を52人の1週間日記でつないでいる。

パラパラと頁をめくっていると、書き出しの一文でさえかなりのバリエーション。
「日曜日なのに七時十五分起床(起床時間)」「風が強く寒い(天気)」「朝一番に執筆を始めたので、二時間をすぐに達成(朝の行動)」「小説『劇場』の発売日(その日のトピック)」「特になし(!)」など。
毎日同じようなルーティンを守る人、たった数行の日と長文の日が混じる人など、さまざま。

気になった頁をつまみ読みしていると、たくさんの固有名詞に出会う(出会ってしまう)。そして、自分の暮らしの外側に、全くべつの、他の誰かの日常があるのだという当たり前のことが再認識される。
これこそが「(他人の)日記を読むこと」の面白さだと思うし、できればそんな日記を書けたらと思う。

ついでに、小説家の町田康さんが日記の中で「日記を書くこと」の面白さに触れていて、思わず頷いたのでメモした(初日の日記で、断片的なことがらを並べていきたい、と書いたときの思いを、もっと正確なことばで表されているように思う)。

「なにか特別なことがあった日のことは後々まで覚えているからわざわざ記す必要はない。だから貴族でもねぇ要人でもねぇ普通の人間が記す必要があるのはそのことが起こった次の瞬間にはもう忘れているような日々のどうでもいいこと及びその事柄から僅かにはみ出た考えちゃうの。なーんて思ったことも一分後には忘れている」(p.88)

その後、そのまま図書館で3時間、研究と制作。
帰り際、『春の庭』を読みはじめたものの、あたまの片隅で明日以降のスケジュール(かなり立て込んでいる)が気になって落ち着かず、途中で本棚に戻す。
小説を味わえる余裕がない生活はよくない。

代わりに新潮のバックナンバーを眺めていると、思想家の東浩紀さんのことばが目にとまった。

「あらゆる連帯自体が偶然だと常に意識し続けることでしか普遍性には到達できない」
(「ポスト・トゥルース時代の現代思想」『新潮』2017年8月号 p.145)

まさに、日記を読む/書くということは、偶然の連帯を作り出す行為そのものだと思う。

日々の生活は、特別でない断片に満たされている。言いかえれば、世界は、必然でない偶然に満ちている。

#日記 #エッセイ #書き方 #雑誌 #本

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