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【東日本大震災】災害ボランティア活動記録

こんばんは。

2011年3月11日2時46分

あれから9年経ち、また明日東日本大震災の日がやってきます。

2011年4月から7月に遡りますが東日本大震災の災害ボランティア活動記録の一部です。主に4月中旬から5月上旬の記録となります。自分の備忘録として、また震災を風化させない意味でここに書き記します。


  活動内容について

1.家屋での泥出し


福島県相馬市と南相馬市のちょうど境にある個人宅でのご依頼。

男性7名、女性1名の計8名のチームで構成された。女性は私だけである。

ご自宅の1階部分が被災され周囲は殆ど全部といっていいほど流されていた。

海が目の前のため余震と津波対策として緊急時すぐに避難できるような場所に車を停める

リーダーの的確な指示と仲間の協調性はすこぶるよく、みるみるうちに綺麗になっていった。

泥かきはスコップと一輪車を使うのだが、私にとっては全く初めての体験であり足手まといにならないように細心の注意を払っていたが杞憂であった。

細かい掃除をしていたら行方不明の奥様からのお手紙が見つかり、ご依頼主の方が涙を流して喜んでいた。

このお宅での作業はちょうどその日が最後の依頼であり、別れ際にお互い涙を流した。

またお会いできる機会があればと思う。

2.物資の仕分け

宮城県亘理町の体育館での物資仕分け作業。

まずびっくりしたのが山積みの段ボール。

衣類に関してはお子さんのサイズ分けに時間がかかった。男児なのか女児なのか、サイズも細分化されている。

段ボールを降ろしサイズごとにカウントする。中古に関しては余りにも状態がよくないものは廃棄処分という指示があった。

この状態に関してだが主観が入ってしまうと作業の効率が落ちる。

例えばこれなら私だったら着るという衣類があるとする。しかし視点を変えると被災された方にこの状態でお渡しするのは失礼に値するかもしれない。そのように迷うケースがあった。その場合は都度リーダーに確認していた。

外国製の衣類に関してはサイズが分らないものが多く戸惑ったし縫製が粗悪だったりするものに関しては、新品でも少しのシミがあれば廃棄という指示があり非常に勿体ないと感じた。

ダンボールを運び仕分けをしてまたダンボールに戻すという地道かつ結構な体力仕事だったので汗が止まらない。休憩は多く取った。

3.役場のパソコン入力補助作業

宮城県亘理町の役場の職員が不足していたため、主にパソコンでのデータ入力をお手伝いさせて頂いた。

その頃はまだ地方の社会福祉協議会の職員の応援も少なかったため、パソコン関連のお仕事はありがたいと何度も言われた。

役場は町民の対応に追われていて「車が側溝にはまったから何とかしてくれ」と怒鳴りに来た町民も珍しくない。しかしこの件に関しては役場の責任は一切ない。毎日がこのような対応に追われて役場の職員は常に疲弊していたように見えた。

4.写真の洗浄・展示

宮城県岩沼町で流された家屋や海などで見つかった写真を丁寧に時間をかけて洗浄し展示をするという作業。

スナップ写真から卒業アルバム、成人式、結婚式などのフォーマルな写真など大様々の写真が見つかった。

慎重に洗浄・乾燥を行い、泥や砂をブラシで丁寧にこすり取る。

かなり時間と手間のかかる作業ではあるが、この写真の整理が一番精神的に辛かった。

その後きれいになった写真を展示してお渡しするのだが、展示会は一喜一憂の場だった。

写真が見つかって喜ぶ人。毎日足しげく通っているのに1枚も見つからなく落胆する人。県外の私はお声掛けするのに非常に気を遣った。

写真をじっと見ていると被災する前のその人は「被災者」ではなく普通の「生活者」だったんだということに改めて気付かされた。

5.避難所でのニーズ調査・傾聴

福島県いわき市の社会福祉協議会に傾聴チームがあり精神保健福祉士の資格を持っているとのことでおのずとメンバーに入れていただいた。

当時いわき市には36か所の避難所があり、いわき市民だけでなく福島第一原発近隣から避難してきた方が多く居た。

楢葉町や広野町、南相馬市からも避難されており、避難されている方からは、いわき市では情報が入らない、各手続きが進まない、いつ家に帰れるのかも分らないといった不安を口にされる方が多かった。

情報は出来る限り町の出張役場に出向いて担当者に現状をお伝えした。

過酷な避難生活

まず避難所に入って感じたことは各避難所によって全然雰囲気が違うということだ。

例えば同じ体育館でもパーテーションがありプライバシーが保たれている場所と、ただ毛布を敷きつめている場所では避難されている方の心身の状態にかなりの影響があるということだ。

そして何より風邪が流行っていた。

ボランティア活動中は被災された方への配慮のためにマスクを装着しなかった。自分自身の体調管理にとても気を遣った。

1日に最低2から5か所の避難所を回るため車の運転は必須だった。

いつしかリーダー業務を任されてから報告書の記入が増えた。いかに効率良く簡潔な文章を書くかということを念頭において書いていた。

そのうち福祉系専門職と地元のボランティアがチームになって共同で活動することにより情報の共有化が実現し、何よりスピード感のある素早い対応ができたのではないかと思う。

辛かったこと

辛かったことはたくさんあった。

クレーム対応に追われた日。傾聴の姿勢を勘違いしているボランティアの後始末。根掘り葉掘り聴く人や自分の話ばかりする人の対応。避難されている方からキツくボランティアなんか要らない!と拒否されたことなど

また社会福祉協議会の職員と運営スタッフとの意見の食い違いもあった。しかし今となって考えるとボランティアをさせて頂いている自分の立場が当時は良く分っていなかっただけなのだと思う。

資格があるから専門職だからということではなく、被災された方にどれだけ寄り添えるかという姿勢と、常にアンテナを張って情報収集と勉強を怠らない努力が必要だ。

地元の方はもちろん、医療や福祉関連の専門職の方々、ネットワークエンジニアや美容師、一般の会社員の方々との出会いはかけがえのない財産となっている。

いわき市には大変お世話になった。また機会があればあの海を見てみたい。

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最後まで読んでいただきありがとうございました。


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