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【読書感想】『いい子のあくび』:世の不合理から少しだけ救われる

「ぶつかったる」。そう思いながら直子はスーパーに向かう途中で、スマホを見ながら自転車に乗る男子中学生とぶつかる。中学生は転び、後ろから中年の女性が運転する車と接触。直子は、自分が避けることも自転車に自分の存在を気づかせることがあったのを理解しながらも、あえてぶつかることを選択していた。それは、これまで駅や街中で自分が「こいつならいいや」と思われてぶかられ、いつも避ける側の人間だったことに気づき、自分のなかで歩きスマホをする人は存在しないことにしたからだ。そんな彼女の行動の根底にあるのが、世の中にいくらでも存在する「割に合わない」ことに対する「割に合わせたい」という感情だ。

本作品に描かれるのは、恐らく誰もが一度は経験するような公共の場で起こる見知らぬ人に対する小さな苛立ちだ。冒頭の自転車の事故では、我が物顔で歩道を走る電動自転車に腹を立てた記憶や、歩道を歩いている時に後ろから自転車にベルを鳴らされ、無意識に道を譲った後に少しだけ後悔した気持ちなど、自然と自分の体験を振り返りながら読み進めていた。その他にも駅に到着した満員電車の中でドアが開く前からぐいぐいと押される時の不快感など、「そうなんだよな」と思わず口にしてしまった。

冒頭から主人公の周囲にいる日常の中にいるストレスの発生源になるような人たちが描かれており、直子の彼氏で中学教師の大地もそんな中の1人だろう。直子は大地のことを絶対に信号無視をしない人間だと評し、大地はマンションの前に捨てられた魚を公園までいって埋めたりと、絵に描いたような先生像を生きるための行動を選択する。その一方で、直子にプロポーズをしておきながら浮気し、バレた後は「あのさ、別れたくはないよ」と理解に苦しむ強気な発言を平気でやってのける。そんな状況にあるからこそ、その後に続く直子の心情がたまらなく良い。

くそぼけ、とまた汚いことばが頭に浮かぶ。これはわたしのことばじゃない、っていうのは嘘だ。ほんとうはいつも頭の中のことばが汚い。くそぼけくされまんこめ。ちんこもげて死ね、電柱の下、植え込みの間に嘔吐の跡がある。投げ捨てられてひしゃげたビール缶が転がっている。泥水を吸ってコンクリートにはりついているハンカチは誰にも拾われない。こんなところで、丁寧なことばだけで、どうやって生きていけというの。

高瀬隼子「いい子のあくび」(P110)

そうだ。こんな世の中なんだから、心の中では多少口汚く誰かを罵ったっていいんじゃないか。駅のエスカレーターで割り込んでくる人、子どもを後ろに載せながら電動自転車で歩行者のギリギリ横を走り去って行く人。見ず知らずに人に少し嫌な気持ちにさせられた瞬間、心の中で舌打ちすることぐらいしかできない自分が、心の中ならもう少し汚い言葉で罵っていいんだと思えた瞬間でもあった。

物語がラストへと進むなかで、直子は自分の正しさを突き通そうとして事件に発展する。直子の抱いていた、「割に合わない」「割に合わせたい」という思いはなんとも虚しいもので、時には意地で固まったピュアな正しさは結局のところ自分を傷つけるだけで終わってしまうのかもしれない。そんな起こりうる事実を直視して、怒りを覚えながら自分の中にある正しさが揺らぐのを感じた。

他人がほんの少しだけ気持ち良く、ちょっとだけ得した感を獲得するため、こちらが何かを背負わせられる時に一体どうすれば良いのだろうか。直子のような行動に出るわけでもなく、結局のところ心の中でとことん相手を蔑んで、残りのどうしようもない感情を飲みほすだけだ。ただ、その空間にはきっと自分と同じ気持ちの人がいるはずだということを思い、少し救われるだろう。


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