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だから私はブリッコをする
タイトルと相反するが、私は昔からブリッコができない。そんな女である。
周囲に愛嬌を振りまくというのがどうも恥ずかしく、性に合わない。だが家庭内は例外である。
夫と娘に対し、超〜積極的にブリッコをする。
それは彼らに対するブリッコがメリットしかないからだ。しかも今となってはそれが私にとって心地よく、一番自然で理想的な姿だからだ。
そんなわけで今回は、なぜ私が家庭内ブリッコをするようになったのかをまとめてみた。
それまでの私
私は今でこそ夫に甘えられるが、結婚前は人に甘えるなんてとてもじゃないが出来なかった。
ちなみに私の趣味はものまねだ。そのように面白がってもらえる部分や素の姿は堂々とさらけ出すことができたが、甘えるのだけは苦手だった。
特に幼い頃はまじめに正直に生きることこそが正義だと思っていたから、「可愛いからオッケー、今回だけだぞ♡」というイレギュラーを発生させる「甘える」という行為がほめられたことなのか否か、もやもやとした気持ちを抱えていた。
甘えるという行為は時にまじめさや正直さを超越してしまう怪しいチカラだと感じていたのだ。
そんなことを考えるほどに以前の私は甘えることに敏感で、堅物だった。
地蔵のようだった。
とはいえよくフワフワしていると言われていたから、言うなればフワフワ宙を舞う地蔵であった。
そんな空中浮遊をする地蔵に興味を持ち、観察し、最終的に地蔵にブリッコをさせたのが夫であった。
彼は地蔵からしたら驚くほどに人間臭く、そしてどんな私を見ても最終的な感想を「だから可愛い」と言ってくれた。
うっかり鼻水が出ても、コンビニでおにぎりが決められなくても、変なポイントで怒り出しても、それまで私が欠点にしか感じられなかった所も全て「可愛いね」と言って丸く収める人だった。
中身で言えば彼こそ地蔵だ。
夫の性質と新しい正解
私は当初、彼がなんでこんなに自分を受け入れてくれるのか、肯定してくれるのか不思議だった。
そしてだんだんと彼の持つひとつの性質に気付いていった。
彼は「可愛がる」のが好きなのだ。
我が家には彼のたっての希望で観葉植物が置いてあるが、この観葉植物のこともたいそう可愛がっている。
霧吹きや水やりはもちろん、葉を拭いたり話しかけたり。剪定する際は可愛いがりすぎて切るのを躊躇するため、私が葉っぱを指定して切り落としている。
その切った葉がまだまだ元気な場合はキッチン横の一輪挿しへと挿しなおす。
そのお世話もマメに行っている。
彼は普段仕事をバリバリこなすタイプで、持ち物は少なく、掃除が好きで、効率だとか段取りだとかを重視する人なのだが、
好きなものに関しては手間ひまを惜しまず、とことん可愛がりたい性分なのだ。
結婚相手がそのように可愛がりたがりということならば、私が甘えることは正解だと思えた。
そう心変わりしてから数年。
私は自分でも驚くほどに家庭内ブリッコが板についた。道ゆく人には地蔵に見えても、家族の前ではネコネコまっしぐらである。
我が家の画期的なブリッコシステム
彼の毎日の接し方は「可愛がる」ことをスタンダードとしており、しかもその話術は巧みで、私が「うん」と応えるだけでブリッコ成立!というなんとも効率的なシステムになっている。
たとえば食後のアイス。
アイスというのはそのほとんどが必要な栄養を摂取する目的で食べるものでは無く、嗜好品だ。
そこにはアイス食べた〜い!!という欲望があり、時には「カロリーオーバーだけどどうしても食べたい!」という欲求のもと、アイスを食べるという行為に至ることもある。
そんな場面は彼にとってうってつけのブリッコ成立チャンスで、私が食後アイスを取り出すと必ず「アイス食べたくなっちゃったの?」と聞いてくる。
そこで私が一番シンプルに「うん」と答えようが、「今日は食べるって決めてご飯減らしたからいいの!」と答えようが、結局「食べたかったんだね、かわいいね」とブリッコに仕立て上げられる。
甘えん坊で可愛がられたがりであることが正解とでもいうように、日々の問いが設定されているのだ。
これは「嫁のブリッコがもっと見たい」、「嫁はブリッコではないが可愛い仕草や返事をして欲しい!」という男性には大変参考になる話だろう。
私はそう確信している。
「可愛がる」ということをスタンダードとした接し方を続ける事で、嫁の方も「可愛がられる」ことがスタンダードになっていくのだ。
卵が先か鶏が先かの例ではないが、かわいいから可愛がるのではなく、可愛くいて欲しいから先に可愛がってしまう。そうすることで自然とブリッコが板についてくるというわけだ。
そうやってまんまと罠にハマった私は、それにより家族がうまくいっていることに気付かされ、もはや意識的に家庭内ブリッコをするようになったのであった。
家庭内ブリッコの効能
家庭内ブリッコはいい。
パートナーとサステナブルな関係を構築するのに、こんなに有用なものはなかなかない。
ブリッコをするにはたしかに心の余裕がいるが、試しにやってみると「かわいく言ってくれたからok」な事例も多く、お互いに疲れている時にこそその本領を発揮することが多々ある。
特に子育て中はお互いの体力や時間や精神力といった様々なリソースが削られがちだ。
そんな時家庭内ブリッコをすることで、私たち夫婦は円滑なコミュニケーションを可能にしてきた。
何度となくブリッコに助けられてきたのだ。
今となってはブリッコなしの生活は考えられない。
ブリッコ地蔵と家族の理想像
そして私は相変わらず、外で地蔵のフリをする。
やはり愛嬌を振りまくというのは苦手だし、私がブリッコが正義と思えるのは家庭内や特定のパートナーに対してだけだからだ。
そういうわけで私たち家族の関係においては、私と夫と娘それぞれが皆に対しブリッコ三昧の毎日を送っている。
それが我が家の自然な姿であり、理想的な状態だ。
私は頑なにまじめでいた頃よりも今の暮らしがしっくりきていて、大きな幸せを感じている。
そして人は、私が思っているより可愛がりたい生き物であったようだ。
そう思った最大のきっかけはなんと言ってもこの世で1番かわいい存在である娘が生まれたことだ。
私は娘が生まれてからというもの、娘が私に対しブリッコ三昧の日々を送れるよう全力を尽くしている。
結局かくいう私も可愛がりたい人間であった。
娘はそれを自然なことと思い、屈託のない表情で日々を過ごしてくれている。それもまたありがたいことだ。
女は愛嬌!男も愛嬌!
そうやってお互いが魅力を何割増しかにして幸せに暮らすことには、正しさなんて超越した大きな意味がある。
ましてやそれが家族の幸せやサステナブルな夫婦関係に繋がるなら取り入れない手はない。
まとめ
私が幼い頃ぼんやり考えた「甘えるという行為は時にまじめさや正直さを超越する怪しいチカラだ」という説はあながち間違っていなかった。
全く、正反対の意味で正解だった。
そして夫婦関係においては正しさの主張などいらない。そんなことをしたら夫婦が敵のようになってしまう。
自分の正しさの主張ではなくブリッコにリソースを割く方が円満な夫婦関係を築くことができると私は思う。
その法則に則り、私たち夫婦は今日もブリッコチャンスを狙っている。
そのために、どんなに疲れていても最後にブリッコをする余力を残し、日々の生活を送っているのであった。
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