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【短編小説】 『車輪の詩』

 二月の凍るような空気を顔と胸いっぱいに受けて、僕たちは川沿いのゆるやかな坂道を疾走していた。

 栞里は眠ったように静かに、それでいて歌うように朗らかに、僕のけっして広くはない背中にそれよりもずっと小さい躰をあずけ、伸ばした両脚の全体をつかって冷たい風の鋭い流れをおもしろがっていた。心地よい温度を保った健やかな柔さが僕の背にはもうすっかり馴染んでいて、それは僕の気分をすこしばかり高揚させ、また自転車のペダルを踏む足の動きを快活にしていた。

「間に合いそう?」と栞里は風のなかで、鋭角的な声音で言った。

「充分、時間はあるはずだよ」と僕はやさしくこたえた。

「よかった」と、今度は風にさらわれてしまいそうなくらいに消え入りそうな小さい声で、栞里は言った。

 僕はなにもこたえなかった。険しい寒気に愛撫されながら、僕たちは下り坂を走っていた。肌を刺すような真冬の風が音をたててなんども巻き起こって、ふたりの自然な会話を困難にしていた。

 けれども、僕たちはいわゆる「ママチャリ」の座席の前後に不安定に腰をならべて寄り添い凍えあううちに、あたたかくてたしかな幸福をしっかりと感じていたのだ。

 夕暮れがせまっていた。

 栞里の両掌が僕の腹部を両側からふしぎな脱力感のこもった力でつかんでいて、その手が下り坂でにわかに握力を回復したとき、僕は常以上に男性的な優越感をおぼえた。高校を卒業して以降、僕は習慣的な運動をやめてしまっていたけれど、僕の腹まわりには贅肉はほとんどついていなかった。爽快にペダルをこぎながら、僕は久しぶりに全身の筋肉がいきいきと無駄なく稼動する感覚を味わった。顔と胸に浴びる風の冷たさと、背後の栞里の躰の重みを僕の筋肉は繊細に、そして快楽的に受けとめていた。

 僕は22歳だった。

 青春を語っていい歳なのかどうかわからないが、青春を絵に描いたような鮮やかないまの時間を享楽している自分にふと気がついて、懐かしさと照れくささが同時に込みあげてくるのを、僕はずいぶん感動的に噛みしめていた。

「野球部だったんだよ」と僕は言った。

「え?」

「や、きゅう、ぶ」

「野球部?それがどうしたの?」と栞里は疑問符をはっきり語尾に際立たせて、ふたたび鋭角的に、なかば叫ぶようにして言った。そして、

「あ。あそこで野球、やってる!」

 背後の栞里の声が川の方へ向いたのを僕は背中で感じた。僕たちはオレンジ色を内にふくんだ清らかな灰色の空の下に淡くかがやく、陰影のふかい草木に囲まれた剥き出しの地表がやけにざらざらした、だだっ広い褐色の河川敷を見つめた。 

 そこに、小学校低学年くらいの、ころころと丸っこくてずいぶん小さな子供たちが、ユニフォームを着て走りまわっていた。野球少年たちだった。ふいに乾いた空気が僕の鼻孔に滑るように入ってきて、やけに懐かしい思いが僕のなかに溢れた。

 そのとき、僕は足元に、あのいかにも不運な鈍い音をきいた。

 頼もしく駆けていた自転車が、たちまち無機質な鉄の塊へと変貌する瞬間。後輪を駆動させるチェーンがはずれたのだ。

 僕たちは黄昏どきの川辺の空中にとつじょ、投げ出された。ああっ、と僕と栞里はほとんど同時に高い声で弱弱しく呻いた。さいわい、ちょうど下り坂が終わって平坦な道に至ったところだった。僕たちはがらがらと激しい音をたてて、野球少年たちのいる河川敷のほう、雑草が生い茂るゆるやかな斜面にむかって転倒した。

 湿った雑草が濃く匂う地面に僕は左肩を打ちつけて、痛みはなかったが、コートがひどく汚れてしまったと苦々しく思った。反転した夕焼け空の下、お互い逆さになって倒れ伏して、正面に向き合う栞里は眩しく笑っていた。

 あはは、と栞里は声をたてた。こんなときにこの子は、笑うのだ。

 僕は起き上がって、転倒した僕たちの足元、僕たちより斜面の高いところに横になっている自転車をゆっくりと起こして、チェーンを点検した。チェーンが落ち込み固定した溝に僕は人差し指を入れて、注意ぶかくほじくってみたが、簡単に元の状態には戻りそうになかった。

「見て。指がまっ黒」と僕は人差し指の腹を栞里に見せながら言った。

「やだ」と栞里は言って、また、あははと幸福そうに笑った。

 野球少年たちの声が聞こえてきた。ツーアウトー、だとか、ピッチャー打たせてえ、だとか、言っている。

「おれ、野球部だったんだよ」と僕は言った。

「うそ。ブラスバンドっぽい」と栞里は新鮮におどろいて言った。「それか、卓球部の補欠くんって感じ、だな」

「なんだよ、その印象」と僕は言って、さっきも触れていたはずの、そして何度も栞里は見たはずの僕の腹筋や背筋は、彼女の目には〈たくましさ〉や〈男らしい力づよさ〉に映っていなかったのかと思い、すこしショックだった。

「コーチ、してきたら?」と栞里は言った。彼女の、透明なほどに無垢で繊細な細長い人差し指は、河川敷の野球少年たちを示していた。

「迷惑だよ」と僕は言って、今度はふたりであははと笑った。

 もう自転車としての役割を果たさない、前後に車輪の二つついた鉄の塊は、僕たちを黄昏の片隅まで運んで、そこに置き去りにした。ゆっくりと、けれど確実に陽は傾いてゆき、それにしたがって川辺の風も冷たさを増していた。僕たちは背中を丸めて風に耐えながら、車輪の上にふたりして跨っていたときと変わらぬ距離感で、しばらく野球をみていようと思った。

「もう、間に合いそうもないね?」と、栞里が思いだしたように言った。

「え」……

 ――遅れてやってきた青春に幸福な僕は、僕たちがいまどこへ向かって、何に間に合おうとしていたのか、束の間、すっかり忘れてしまっていた。

 あるいは、本当に間に合わせなければいけない、今のこの時間よりも重要な約束事など、このときの僕たちには、本当になにもなかったのかもしれない。

〈終わり〉

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