【小説】 『明けない夜はないという使い古された常套句を今、』

  明けない夜はないという、使い古された常套句を今、僕は自分自身に言い聞かせている。

  それはまるで明けない夜のような、完全な夜のことだった。

  窓越しの冴えた月明かりのほかには暗黒が満ちあふれた夜、屋根の上に神経質に張り詰めている、低い天井の下の僕をとらえて放さない悪質な夜のこと。

  それでも僕は知っていた。明けない夜はないという、ありふれた大勢の人たちが、ありふれた祈りの言葉のようにして唱えつづける、そのことを。

  明けない夜など、羽のない鳥と同じように、僕はこれまでの人生で見たことがなかったから。

  明けない夜なんか、この世界にあってはならない。誰もが信じているそのことを、まるで鳥たちから飛ぶ力を奪おうとする、嫉妬する悪魔のような人たちが否定する。「もう駄目だ、諦めろ」「希望を持つことなんか馬鹿げている」そんな言葉が閉ざされた闇の向こうから聞こえてくる。

  僕はベッドに縛り付けられるようにして、ただその悪意にみちた囁きを耐え忍んでいる。眠りの誘いはすぐそこまで来ているのに、僕はその瀬戸際になってそれに身を預けることができない。夜の匂いがする。冬の、残酷なまでに冷えきった夜の匂い。それらは僕の冷却された足の裏にも意地悪く張り付いて、僕を切なく、心細くする。

  【夜は、明けないのではないだろうか】

  そんな考えが頭をよぎる。

  僕はやがて訪れる夢の世界、それは決して快楽ではない、輪郭のあやふやな夢の世界で、悪魔たちと悪態に塗れた余生を過ごさなければならないのではないだろうか。閉じていた目を開ける。迫りくる天井の幾何学模様のなかに、夜を乗り越えるヒントを必死になって探す。その徒労を、闇の向こうから笑う、悪魔の声。

  【見返してやる】。

  夜のベールを僕の枕元から執念深く剥がそうとしない、大人の悪魔たちがいる。「どうせ子供だぞ」「ひねり潰してしまえ」。

  僕は今朝、鏡の中にみた、僕のつるつるした童顔を思いだす。背後にはぼんやりとして弱々しい冬の日差しが、すべての物の陰影を注意深く深めている。白く輝く部屋の透きとおった光に包まれて、僕はかりそめの満足を得る。それが間違いだったのだとは思いもせずに。

  昼下がりの渋谷、京王線の駅の改札を出たとき、ガールズ・バーのチラシ広告を配っている、二十歳になるかならないかくらいの褐色の髪色をした女の甘えるような視線に出くわした。それは突発的で、偶発的で、そして刹那的な、女の切実な問いかけだった。それはあるいは、すべての女を代表した僕個人への鋭い問いかけ。

  僕はそれにいっさい構わずに、いそいそと仕事へ向かった。

  そのとき、改札の前の人混みのなかに取り残された、もう一人の僕の抜け殻が、夜になって僕の寝床までやってきて、言う。「みんな、もっと遊んでいるぞ」「僕はいいんだ」「どうして」「話が合わない」「合わせようとしていないだけじゃないか」「なぜそう思う」「くだらない芸術家のプライドさ」「くだらないなんて思わない」「くだらないさ」……

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  とりとめのない不安は、《一度も現在になったことのない過去》に似ている。それは未来に向けられたものではなくて、自分の歩んできた過去をあれこれと疑うことに過ぎない。

  僕の心の内部には《一度も現在になったことのない過去》が張り巡らされている。

  起こったことだと信じている過去の事柄の、ほとんどは起こっていなくて、それは現在の自分の穏やかな日常のために、注意深く選び抜いて想起している不明瞭な映像に過ぎないのだ。

  【過去に別れを告げよう】。

  夜はかならず明ける。まったく新しい、清々しい朝がやって来る。

  圧倒的な光のなかで、僕は新しい僕となって、新鮮な呼吸の一つひとつに胸を踊らせるのだ。

  そのために夢を見よう。かならず終わる夢を。夢が終わったとき、世界には光が満ち溢れていて、僕は夢のような現実を生きるのだ。

  僕は、深く呼吸をする、あまりに凶暴で凶悪な夜のただなかで、明けない夜はないという使い古された常套句を、あきれられるくらいの誠実さで祈るように、唱えつづけていた。明けない夜はない。

〈終わり〉

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