【エッセイ】 『竹馬の友、レゴの友』
「〝竹馬の友〟って、いまどきは言わないの?」
勤めているお店のママに不意打ちにそう訊かれた。
「どうなんでしょうねえ」……。僕は〈いまどき〉に疎い若者なのだ。
竹馬の友、幼いころにできた友だちのこと。たんに親友という意味ではない。大人になってから出会った人とどれだけ仲よくなっても、お互いの竹馬の友にはなれない。いっしょに竹馬をして遊んだ友だちは、人が時間を遡れないかぎり人生に二度と現れることはない、貴重な存在だ。
「いまどきは竹馬なんて、しないでしょ?」
「そうですねえ」……。僕はひらいたスマホで検索するまえに、自分自身の古い思い出を振りかえってみる。
学校の枠組のなかでは優等生の部類にはいっていた僕は、数すくない友だちに「子供らしい」ことをたくさん教わったと思う。遊び方から振る舞いにいたるまで……。やんちゃさよりも「一歩引いた」感じのある、ずいぶん生意気な少年の性格を適度にほぐしてくれていたのは、まちがいなく竹馬の友の存在だったのだと思う。ただし、かれらと竹馬で遊んだ記憶はほとんどない。
「いまどきはやっぱり〈スマブラ〉とか〈マリオカート〉とか?」
――あの頃、僕たちの田舎の町には広い田畑と鉄道以外、なにもなかった。いまでもとりたててなにもない町に、かつてはコンビニさえなかったのだ。日が暮れた畦道をおそるおそる歩いたことや、街灯の明かりのくすんだ黄いろが懐かしい。
「そういうわけでもないんですよねえ」……。
僕はスマブラもマリオカートももっていなかった。家庭の経済力や時代性のせいではなく、単純にテレビゲームよりほかのことが好きだったのだ。おもちゃのブロックをつかった創作やそれを下敷きにした空想の時間が、おそらくは僕の原点。
LEGO(レゴ)の友――と言葉をひらめいて、ひとりきりでレゴブロックを組み立てていた長大な時間を思い出して言いとどまる。あの孤独な作業の延長に、いまの執筆や作曲の時間があるとするならば、ようやく救われる気がする。
そんな独りよがりな僕にも竹馬の友「らしき」友だちがいてくれたことには感謝しなければならないだろう。あの子はマリオカートを本当はしたかったのかもしれない。かれはカードゲームの世界で僕と切磋琢磨したかったのかもしれない。――いろんな可能性に思いを馳せることができるということが、大人になったことのひとつの証であればいい。
人びとの価値観が多様化するにしたがって、あるいは変化するにしたがって、言葉そのものも移り変わる。言葉の最大の目的がコミュニケーションにある限り、現実に即さない言葉は忘れられる運命にある。
僕にとっての竹馬の友に、「竹馬の友」という表現が通用しなかったならば、それはレゴばかりしていた僕にも責任の一端があるのかも……。生活文化の変遷は言葉の変遷に、おそらくは常に先行する。けれど日本語の慣用句はカタカナ語をそれほど必要としているのだろうか。
僕たちはもっと丁寧に生活を送らなければならないのかもしれない。愛着ある日本語を簡単に錆びつかせないためにも。
久しぶりに竹馬にでも乗って、目線の高さをかえて世の中を見てみようか。
〈終わり〉
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