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【小説】 『2020年の羅生門 〈逃亡、そして完結編〉』

「お爺さん、偽善者はあなただ」

「なんだと」

 老人は錆びついた眼球がぼろぼろとこぼれ落ちそうなほどに痛々しく目を見開いた。その表情は怒っているというよりも唖然としていた。

「わたしの仲間には、いや、この工事の計画から実行までのあらゆる工程に関わる者のなかには、日本の未来を真剣に考えて、そのために必死になって仕事に取り組んでいる者が、何人もいます。このわたしだって、気持ちは同じです」

 老人は荒々しく息をたてながら健三をにらんだ。けれども健三は自分の絞りだす言葉の一つひとつに、老人を冷静にさせる力があると信じて語りかけた。

「あなたは、貧乏人から巻きあげた金でオリンピックが成りたつとおっしゃった。それはそれで真実であるとも、悔しいが言えなくはない。日本の経済成長は停滞したまま、国政はあらゆる面で行き詰まりをむかえている。国民の貧富の差は依然としてあきらかに存在する社会です。――けれども、だからこそ、スポーツの祭典に願いをたくす、その発想をわたしは一国民として支持したい!」

「戯け!」

 老人が声を荒げた。その剣幕は健三の自らの言葉への信頼を見事に打ち砕くものだった。しかし健三はつづけた。

「単にスポーツの祭典といいますが、これは日本経済のカンフル剤です。オリンピックの資金はけっして無駄金じゃない。言ってしまえば、お爺さん、わたしの生活だって、〈羅生門を壊す〉という職務によって成りたっているのです」

 老人は〈羅生門を壊す〉という言葉に過剰に神経質になっているのか、こんどは喉の奥でひいっと弱弱しい声をもらした。

「そうです。わたしは羅生門を壊すのです。しかし、それは日本のために、日本にいる仲間のために、行うことです。かれらのために、わたしはその仕事に誠意を尽くすのです。それは同時に――この羅生門で死んでいった、過去の人びとが紡いできた日本の歴史を、たしかに国家としては間違いをたくさん起こしたけれど、でも、民衆レベルでつないできた生活の歴史は、世界に誇れるものだったと、胸を張って肯定するための、わたしの仕事なのです」

「戯け!お前の言うことはきれいごとだ!」

 老人は必死になって声を出したが、それは毅然として立て板に水のごとく話す健三の前では、あまりに悲しい響きを残すだけだった。

「わたしは、あなたがいう、政治家や資本家では当然ありません。あなたと同じ、れっきとした、か弱き無辜の一庶民です。その庶民がきれいごとを信じることを、わたしは間違っているとは思いません!」

「それは騙されているだけだ!」と老人は血を吐くほどのあやうい勢いで声を振り絞った。「お前のような庶民も、ここまで洗脳されているとは。いよいよ日本は滅びるぞ!」

「滅びません!」

 健三は言いきった。

「滅びる!」

 老人は悲壮感いっぱいの声色で言い返した。

 ここにきて、健三と老人の身体的な強度の残酷すぎる差が、議論のゆくえをはっきりと左右するほどの声のつよさや明瞭さとなって顕現し、ふたりの意見の説得力にあまりに大きな差を生んでいた。そのことに健三は気がついたが、老人に同情の言葉をかけることを自らに許さなかったのは、老人の乱暴な意見もまたかれにとっては命をかけた信念であると、認めていたからである。

「日本はけっして滅びません。そして、わたしはわたしの生活のために、この羅生門を壊します」

 健三はあえて、それが惨い攻め方だと知っていながら、〈羅生門を壊す〉という言葉を再びはっきりと口にした。

「愚か者が……」

「ある人たちが懸命になって動かしている事業を一方的に愚かと、過去の否定だと批難して疑わないその態度は、それこそ偽善ではありませんか」

「先の戦争もそうだ、生活という一つの気高い歴史が滅びる前に、大衆はいつも洗脳されてきた」

「僕は洗脳されているとは、まったく思っていません」

「その思いこみこそが洗脳なのだ」

「そう決めつけることが、偽善です」

 その瞬間、老人がああっと叫んでうずくまったかと思うと、健三のジャンパーの裾が大きくめくれ上がった。健三は抵抗したが、下腹部に絡んだ細腕にこめられたあまりに弱い力に肩透かしをくらった感覚で、まるで子供の相撲の相手をするかのように、自分のなかの半分の力もこめないくらいの腕力を老人の痩せた両肩にあてがった。そして老人を体から放そうとしたその瞬間、健三の腹部に鋭い激痛がはしった。はしったと同時に目の前にほとばしる濁った色の血潮を見た。暗い羅生門のなかで、それはまるで雨に濡れそぼつ現在の羅生門の丹塗りのような色だった。

 意識が薄れていった。仰向けに倒れた健三の上にうずくまる老人の右手には、健三の血に濡れて黒ずんだ光を放つサバイバルナイフがあった。老人の表情からはなんの感情も読み取れず、かれはほとんど動く死骸のようだった。――

 健三はなんとか意識を保って手足をばたつかせ抵抗したが、老人の作業は見事なまでに要領がよく、そしてはやかった。ワレハオイハギ、ワレハオイハギ――老人の古木の幹に開いた小さい穴のような口はたしかにその言葉をなぞって動いていた。あっという間に健三は全裸にされた。腹の下の毛から黒い血が滴っていた。こんな場所でみることになるとは思わなかった自分の性器が老人のほうを向いて血のこびりついた股の間で不憫に萎れていた。それは水の汚濁した古池に打ち上げられた鯰の死骸のようだった。体に力が入らず、どんな言葉もうめき声のようになって、門内の湿って汚れきった空気のなかに溶け込んでいった。老人が健三の着ていた衣類をかかえて健三から逃げるように走り去ろうとしたとき、ようやく降りしきる雨の音が健三の意識のなかに戻ってきた。腹部の痛みも、そして砂でざらざらした冷えきった地面の全身で感じる触感も戻ってきた。老人と言いあっていた内容も、健三の血とともに凝固して、体外に溢れだす生きぬくために大切なあらゆるものを守り抜くかのような信念の証を呼び起こすように、はっきりと蘇ってきた。

 健三は老人の背に、怒りでも復讐でもなく、先ほどの議論の連続としての言葉を力のかぎり投げつけた。

「あなたがそうやって略奪で暮らしてきたこともひとつの〈生活〉ならば、わたしが羅生門を壊すことによって繋いできた暮らしもれっきとした〈生活〉でしょう!都市開発にともなう羅生門の解体の現場責任者としてのわたしに支払われる、けっして少額ではない報酬は、しがない解体業者で地道にがんばってきたわたしに、略奪なんかせずとも、替わりの服も、腹にあいた傷口の治療費も、すべて賄える生活を保証する!」

 老人は一瞬立ち止まるそぶりを見せたが、再びふらふらと走りだした。健三の衣類が両手からなんどもこぼれ落ちそうになるが、実際には靴下ひとつこぼさすに、全身を器用につかって飄々と去っていった。

「わたしは、胸を張って、あなたの羅生門を壊す!そして大いなる自負心をもって、羅生門における、あなたのわたしへの罪を許す!

 その声は、波動のように湿った空気を揺るがせて門内いっぱいに広がり、同時に健三の傷口もきりきりと痛めつけたが、老人のふらつく足の動きをとめることはできなかった。

 暗い羅生門から、いくらか明るい外に飛び出した老人は、あっという間に雨の彼方に消えていった。腹にできた傷口以外、まるで夢のような出来事だった。健三はそれが現実であった確かな証拠として股間に静かにうずくまる親しい鯰の死骸を見つめて、さてこれからどうしたものかと考えた。腹の傷はやはりどうしようもなく痛い。

 曇天には光の兆しすらなく、雨は激しい音をたてて降りつづけていた。

 老人の行方は、だれも知らない。

〈終わり〉

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