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【短編小説】 『深秋』

 はげしい時雨の音で目覚めた雪子は、灯りの点いたままになっていた頭の上の読書灯を消そうと右腕を伸ばすと、思いがけない冷気に触れて、冬の到来を感じた。

 昨日の日中まで、半袖で過ごせるくらいのぽかぽかした陽気だっただけに、今朝の寒さが文字どおり身に染みて、雪子は、今年もつらい季節がやってきたんだと、眠気がまさっていた意識をにわかに確かにして心から嘆息した。

 灯りの袂のスイッチを操作して、すばやく掛け布団に肩まで潜りこむと、ふたたび心地よい眠りをもとめて目を閉じた。部屋にはカーテンの隙間から朝の光が兆していた。閉じた瞼の向こうの世界も、すでに夜の闇の色ではなかった。雪子はすぐに眠ることをあきらめて、枕元の時計を見た。六時三十分ちょうどだった。

 となりで寝ていた真木雄の姿がないことに気が付いた。普段ほとんどいびきをかかない亭主ではあったが、時雨の音につつまれて部屋がやけにしんとしているので、さすがに変に思って、左隣の寝床を覗いてみると、空になった掛け布団の真ん中から上が足側へ丁寧に折り返してあった。

 真木雄も起きているようだし、久しぶりに休日の朝を有意義に過ごしてみようかしら。そう思い立って、日頃、仕事の忙しさが原因でやや睡眠不足気味の雪子ではあったが、今朝はがんばって布団から早々出ることにした。

 痩せ型で贅肉の少ない雪子の全身を薄手のパジャマは温めてくれなかった。女友達にはうらやましがられる体形だが、真木雄はもっと肉があっていいと言う。一方で雪子自身はもっと痩せたいと思っていた。冷気が張り詰めた部屋の引き戸を開けると、暖房が効いたリビングで真木雄は日経新聞を読んでいた。

「おはよう。はやいね」と、真木雄は雪子のほうをちらっと見て驚いたように言った。

「おはよう。雨だし、寒いし。いやになっちゃうね」

「そうだね。前向きなのは日経平均株価だけだ」と言って真木雄は眉間にしわを寄せた。いちいちキザな人だと雪子は思う。

「早起きしてみたはいいけど、やることがないわ」

「いっしょに『会社四季報』でも読む?」

「却下」と言って雪子はソファーに横になった。先月買ったばかりのソファーは、まだ新しい布の匂いがした。

「しかし急に寒くなったね」

 真木雄はせっかく早起きした新妻に二度寝をさせるまいと思ったのか、そんなたわいもない言葉をかけてきた。

「そうね」と雪子はわざといい加減に答えた。

 ――神無月はもう半ばを過ぎていたから、昨日までが暖かすぎたのだ。そう頭ではわかっていても、今朝の急な寒気の訪れは、雪子の気をやはり滅入らせるものだった。毎年、晩秋から冬にかけての朝、雪子は人一倍憂鬱になって過ごす。雪子は名前に似合わず夏が好きで、夏の気候が体に合っていた。寒さが暖かさに変わる三月や四月の朝方なら、気分としてはいまの正反対で、休日であってもうきうきして早起きするくらいなのだが……。まるで子供だな、と雪子は自分のことながら思った。

「まるで子供だな」と真木雄が言った。

「なにがよ」

「なにもかもだよ」と真木雄は笑って言って、日経新聞をたたんで席を立った。モーニング・コーヒーの芳ばしい香りがリビングを漂ってきた。

「株式とかさ、数字の羅列ばっかり見て、楽しいの?」

「楽しいよ。おれはユキに、宮沢賢治ばかり読んでて楽しいの、って思うけどなあ」

「『銀河鉄道の夜』を読んだことがないからそんなことが言えるのよ」

「『会社四季報』を読んだことがないから、って言葉を返すよ」――

 ふたりはソファーに並んで掛けて、まるで冷たい空気の塊とにらめっこするかのように、32インチの薄型テレビ以外なにもない空間をただじっと見つめて――しかもテレビは付いていない――芳しいブラック・コーヒーをゆっくりと喫した。熱すぎるくらいの暖かさと苦さが、起き抜けの体中へ心地よく染み渡っていった。

「週明けはまた、あったかくなるらしいよ」

「ふーん」

「雨、今日中に止むといいねえ」

「しばらくはこのままよ」

「まったく、うんざりするね、ジョバンニ」

「株価より変動のない天気よ、カンパネルラ」……

 時雨はあいかわらず、まるで貝殻の内側から聞こえてくる波音のように、ふたりの鼓膜のすぐ近くで静かに激しく鳴りつづけていた。それは世界の遠く、ほとんど最果てに近いところから聞こえてくる、荒海の音のようでもあった。ふたりの朝の時間は、暖かさや寒さや冷たさという、その季節ごとのたしかな肌触りを伴って、まるで時雨のように静謐だがはっきりとした音を立てて流れてゆくのだった。コーヒーの苦みのようなものもまた、ふたりの新婚生活には、ちょうどよい甘い刺激となって……

〈終わり〉


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