連帯責任は過去の辛いトラウマを引きずる要因の一つ

まずは上原浩治さんのコラムを


(大学野球の名門である東海大の不祥事を取り上げるわけではありません。不祥事に関しては言語道断であることには変わりありません。東海大の処分等は発表されてますが、こちらでは触れません)

またこちらはnoteでたまたま見つけた投稿も合わせて載せておきます。

共通しているのは

連帯責任に関することです。今回はそれを書いていきます。

2つの投稿で読んで個人的に思ったこと

まず、上原さんのコラムから

活動の無期限停止やリーグ戦の辞退という「連帯責任」はこの時代になっても必要なのかという点だ
それでも「興味本位」で手を出したのなら、当該部員だけを厳しく処分すべきだ。野球に打ち込みたくて東海大の門を叩いた無関係の部員まで、なぜ野球をする権利を奪われないといけないのか。「連帯責任」「団体行動」の是非は別として、実はその中にいたほうが「楽」な一面もある。チーム一丸はむしろ、高い意識を持った「個」が集まることで形作られる

 この事件が発覚したのはドラフト会議直前であり、衝撃のニュースだった事は覚えています。この不祥事に関わっていない選手にとっては何も悪いことをしてはいない。むしろ野球に全力をかけて戦っていたからこそ、関係のない選手にとっては活動停止処分は怒りと悲しみの感情になっていたと思います。
 関わっていた学生のみの処分にすべき。その通りだと思います。何のためにここで野球をやりにきたのかということを・・・(そう簡単にここで野球ができないからこそ)

ラグビーの今野さんに関してはスポーツと連帯責任について詳しく記載していました。
次はそのことで

 ここでは外部で起きた場合内部で起きてなおかつ主力である場合と無い場合のケースが書かれてあります。

外部のケースはテレビ等で知る場合。内部のことなんて知らないことが多いので、他の人はかわいそうと思うことが多いと思います。(それと加害者への非難)

内部は2つ
  ・もともとしっかり物事へ取り組んでいない人、あるいは人数が多く存在すら知らない人が問題になるケース。これに関しては先ほどのケースに関係します。
  ・ここで欠かせない人でやらないであろうと思っていた人が問題を起こした。(先ほどのケースではないものの、そちらに近いという噂も)
この2つのケースです。

1つ目については外部のケースと似ているので省きます。特に2つ目について

ここが当事者として1番感情の持っていき方が難しい所だと思います。
チームの中心選手だったり、人格者と言われているような選手だったりすると周囲に与える衝撃は大きいです。
このようなケースになってしまった場合は、最初は当然「なにやってんだよ」とは思うでしょうが、「早く周りが気が付いていたらこんな大ごとにならなかったかもな」とか、中心選手で活躍していた選手であればある程「連帯責任で自粛しても仕方がないかもしれない」と思うかもしれません

何やってんだよと思うところは前者のケースにもありますが、このケースはチーム全体であれば、任せてばかりいた。負担をかけ過ぎた結果取り返しのつかない問題を起こしたとなれば・・・。

そして今野さんは連帯責任についてこう書かれていました。

現段階では、基本的には「連帯責任はなし」だと考えています
 問題が個人の責任なのか、チームの責任なのかをはっきり線を引いて、一括りに「連帯責任」とならない方が、公になっていない問題も顕在化して長い目で見れば健全になっていくんじゃないのかなと思います。
 ただ、例外として自主的に自粛するという事なら「連帯責任はあり」と考えています。
 本来、「自粛」とは自分自身で決める事ですが、最近は外的な要因で自粛をせざるをえないケースも結構あるように思えたので、この変な日本語に辿り着きました。
まぁ外的な要因を完全に排除した上での自粛はよっぽどですけどね…。

経験した連帯責任のこと

こっからは経験したことです。
(過去のことを書いたことと内容が似ているかと思います)

1人が悪ければみんなが悪い。一人のミスはみんなのミス。
全員が責任を負う。
一人の責任はみんなの責任。
一つのことにみんなで向かう姿勢が重要。失敗は常に許されない。

そう、小学生から今になって思いました。

 小学4年生から連帯責任が強く、より一層強く感じたのが高学年から中学卒業まで。(高校はさほどでした。が最初の就職先では小学以来の強い連帯責任感が出ていたような気も)
担任が変わったあたりからでした。それが3年間も(さらにもう中学3年間も似たような感じ)
 小学生から連帯責任ってと思うかと思いますが、当時はそう当たり前の感じのように思いましたがどうでしょうか?

主な連帯責任になることは・・・

教科書等忘れたらその場で𠮟る。場合によっては先生が授業をボイコットして黒板を強く叩く。

些細なミスがあったらその場で𠮟る。もしくはその場で立たせる。失敗を許されない社会だからここで失敗するな。

忘れた・やってこない=できてないからみんなで出来るまでやる。用事があっても出来るまでこっち優先。遅刻したらできない人が悪い。

みんなが悪いから。数人頑張っても無駄。全員が完璧主義でいないといけない。

一人が悪かったらみんなが悪い。弱点を無くすためには怒鳴り散らして無くすようにする。いつ社会に出てもいいように。

・この人はできない。やらない。とみんなで見せて失敗をさせない。ルールを守らせるような感じ

他には機嫌によるというのもあったかな・・・それだけで結構なことを経験してきました。先ほどまではスポーツによる団体競技の話ですが、こちらは学校(というよりかは団体生活かな)での話です。
 これらも小学生から経験してきたことです。(補足しますが、ゆとり教育時代の話です 個人的にはゆとり教育の・まあそのことはあとで)

そのおかげで
相手からも睨まれることもあれば、お前が悪いとかの言い合いもしばしば。責任あるのが嫌だから押し付けもしばしば。
ある時にはお前が頑張っているけどみんなが響かないからできないとか言われていたような・・・その後のことはお察しください

今のような風潮もこうしたことからでてきているのかなと。

ちなみに朝一に正座して𠮟られることもあれば、全校生徒の前で𠮟る(例え小学1,2年生でも関係ない。見た記憶だと、生徒の前ではないのですがうるさい低学年には幼稚園に戻すぞと言っていたのを見てました それ言ったの担任だったとあるいは先ほども書いたボイコットや忘れ物を取りに家まで行かせることも。ところによっては部活廃部案も(所属した先々で)

過去のことはこちらへ書いてます(こちらで前後編リンク貼ってます)

そうした事が積み重ねてトラウマの一つとなり、消えることもありません。

未だ、脳裏に思い出すこともしばしばあります。

𠮟られ慣れてない?逃げたから?

違う

𠮟られ続けて 逃げてもないのに逃げられない状況下 責任のなすりつけ合いに巻き込まれ、渋々引き受けて一人で戦う。ミスも恐れない環境ではなく、ミスすらも許されない環境でやる。

それも義務教育で沢山経験してきました。
(そのおかげで真面目に周りを反面教師としてやってきた。でもそれ以上に・・・)


最後に

ルール違反やよくないことを指導したり注意することは当然です。でも、それは個人で対面してやることがいいのではないでしょうか。

同時にみんなで高め合う姿勢としての連帯責任は果たしてどうか。

トラウマとして今でも脳裏に残ることもある。必要以上に𠮟り、失敗を恐れないような環境よりも失敗を許されない姿勢を作れば、社会に出ていけないこともあり得ることも。


そもそも、ゆとり教育と言われているけど、私にとってスパルタ教育でもがき苦しんだ。

それが今、誰か悪い。一人の責任がみんなの責任などで言われていることでこの連帯責任を取り上げました。



ちなみにその担任だった先生はかなり偉くなっており、いい先生でしたよと外部の方からお話を受けました。

色んな経験に関してはそうですが。

個人的には


クリスマスの時期(終わったけど)にこんな投稿で、すいません。

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