正直、
この企画を忘れていました笑
これを読んでくれる方もいるのか分かりませんが、
でも、はじめたことは、
続けられるうちは続けようかな、と。
それでは、はるか二か月前の詩から。
田舎に帰る度、
ここにはここの日常の流れもあったのだろう、
けれど、、、
と思う瞬間があります。
代わっていくこと、変わっていくことは悪いことではないけれど、
人の身勝手を押し付けられる見えないもの、見えるものはどう思っているのだろう、と思って仕方がないのです。
体があることを知る驚きよりも先に、
私は心が在ることを驚き、輝き、どうしようもなく震えました。
山の上の展望台に、
撮り鉄の長男と一緒に登って行った時、
あまりに風がやさしく吹くので書いた詩でした。
雨は、
その度に季節を押し流していく。
一粒の音が分かるようなしとしと雨も、
夏らしいどうどうと降る雨も、
とても愛おしいものです。
山へ、湧き水を汲みに行った時の詩です。
森の穏やかさと、
季節のなだらかさに身を委ねながら水の落ちる音を聞くのはとても楽しかったです。
もう結びつかない小指は無力でしょうか。
亡くしたものはもう叶わない、
想いでしょうか。
繋がりは見えないままどこまでも錆びないものであってほしい。
そんな詩です。
お山の湧き水は、
地蔵菩薩さまのお祭りされているお寺のすぐ下にあります。
そのお地蔵様は、本当に穏やかな顔をしていて、
けれどその手はきっとたくさん取り零したものを悲しまれているのだろうと思うのです。
お地蔵様という存在は、
それを仕方ない、とは言えない存在なのだろうと。
だから、その手が掬い上げられたもので満たされて喜べますように、
と願って。
願いは大きい。
どんな些細なものでも。
そしてそれは破れたとして、
自身の中に巨星のように残ると思うのです。
それは表面に誰を映してくれるでしょうか。
あんまりにうつくしい三日月を見てしまったために書いた詩。
三日月のハイヒールなら、
なんてうつくしいでしょうか。
その片側の足にどんなに無理をさせようとも、
踊り続けるでしょう。
詩学舎で、
ある方が「戦争で亡くなったひとはどこへいくのでしょう」と
悲しそうに言った言葉に、
応えるように書きました。
穏やかな船に乗って、
何もかも分かち合って、
静かな揺れに身を委ねていてくれたなら、と。
以上、詩の解説のようなものでした。