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余情 15 〈小説〉

 図書室のドアを開けると、後輩の姿はすぐに見つけることができた。昨日座っていた席に彼女はすでに着いていた。その手にはすでに本があった。私が近付いても、本に注がれる視線がはずれることはなかった。
 今日は昨日よりも図書室にいる人数が少ない。私は彼女のひとつ隣の椅子の背を引く。微かに椅子の足が、床を引きずる音を立てたが、後輩の集中力を削ぐことはなかったようだ。
その横顔を何となく見つめながら、私は椅子に座った。いつもなら椅子に座ってすぐに本を開いて読み始めるところだが、今日は、彼女の横顔から目を話す気にならなかった。横顔を見ながら一番に目が惹きつけられたのは、彼女のきれいな鼻筋だった。光ははしゃいでその線をなぞり、睫のカールや、耳たぶの浅瀬を、楽しそうに満たす。彼女の顔立ちは、鮮やかなくらいはっきりしているのに、少しも騒がしさがなかった。色をあっさりと塗った唇や、爪のかすかなピンクを、学校の大人たちは好意的に見逃しているのだろう。部活をしていない彼女は、先輩というものと関わる時間が少ない。物怖じしない性格だから、私としているように個人的な関係を作っているのかもしれないけれど。
彼女のあっさりとした華やかさを、貶めるような人間はここにはいないのかもしれない。少なくとも私は、彼女に対して不快な感情を持たないまま、こうしていつの間にか大体の放課後を共にしていた。不思議な存在だと思いながら見つめていた私に、ふと彼女の大きな目が向き合った。あまりに唐突に合わされた目線に、私は手にしていた本を落とすところだった。
「先輩、いつの間に来てたんですか」
「さっき?」
「なんで疑問系なんですか」
 彼女は笑いながら、読んでいた本を閉じた。
「もう読まないの」
「読み終わりました」
「もう?」
「再読だったので。だから、気に入っている文章を拾って読んでいただけです」
「そういう読み方もあるのね」
 彼女はその本を棚に返しに行き、また同じ席へと戻ってきた。口元を微かに緩め、私へ傾げてみせる表情はどこか幼い子供のようで、先ほどまで文字の世界へ入り込んでいた人間と同一人物とは思えなかった。
「読み終わったんですね、あの本」
「うん。持ってきたよ。でも、もう一冊はまだ」
「もう一度読み直してくれてるんですね」
「そうね。これを読んでからだと、読み方が変わるっていうのが、分かったからね」
「どっちが面白いですか」
「ちょっとまって」
 私は彼女の口元へ一刺し指をかざして遮った。気難しい人がいないとはいっても、ここは図書室だ。本を読みに来る場所で、本の話をしに来るところではない。彼女の口元から手を下ろし、私は先に立ち上がった。
「今日は、私が紅茶をご馳走します。といっても、缶のやつです。良かったら、別の場所で話しましょう」
 彼女はそれを聞くと勢いよく立ち上がり、大きく何度も首を縦に振った。そんなに力いっぱい首を動かさなくても大丈夫だと言いたかったが、その様子がなんだか心に軽やかに入ってきて、言葉は重い腰を上げる気にならなかったようだ。変わりに彼女の手をとって図書室を出る。
 光が、加減なく入ってくる放課後。壁の側を歩いていても、眩しいくらいに世界は明るかった。
 図書室のある特別棟から、それぞれのクラスのある建物に続く廊下の途中に、自動販売機と、何代か前の先輩たちの卒業制作である、手作りのベンチが置かれている。ペンキが剥げはじめている。私の代の卒業制作で、ここのように学校内にいくつか設置されているベンチの補修をすることになるのだったと思い出した。 
彼女を先にベンチへ座らせると、私は自動販売機の前に立った。自分用のレモンティーを買い、彼女にはミルクティーを買う。あたたかい方を選んだのは、廊下はまだ眩しい光だけでは、少し肌寒い気がしたからだった。両手に熱い缶を持って、彼女の隣に腰を下ろす。
一度目の私が補修したベンチは、どのベンチだっただろうか。使ったこともないベンチに、私は黙って絵を描いた。いっしょに作業をしたはずのクラスメイトの顔一つ、思い出せなかったけれど、鼻に痛いくらいのペンキのにおいは記憶に残っていた。
 彼女は渡した缶の紅茶のプルタブをさっそく開けて、すでに一口目を喉に通していた。彼女があまりに急な角度をつけて飲み始めたので、私は驚いて声をかけていた。
「そんなに一気に飲んで、喉を火傷しないの」
「大丈夫です。我が一族は食道が丈夫なので」
「どんな一族よ」
「大事でしょ?」
「食道の丈夫さだけだと、お餅を詰まらせる可能性は他の人と同じくらい持っているけどね」
「いえ、強いと思っている分、他の人よりもちを詰まらせる可能性が上がっちゃう気がします」
「駄目じゃない」
「気をつけます」
 彼女が舌先を覗かせて笑う。妹のようだ、と感じて、私には兄弟姉妹はいないのにと不思議になった。こんなふうに感じる人間は、今までいなかった。そう考えて、私は頭を強く殴られたよう衝撃を受けた。
 私は、今、彼女との会話を楽しいと感じていたのではないか。
 そんなはずはない。そう言い返すことが出来ないまま、私も手の中の飲み物を勢いよく飲んだ。甘い酸味が口の中を塗り替えていく。その感覚に、喉が焼けるような熱さに、思わず蒸せた。
「先輩っ」
 彼女が私の背を撫でた。盛大に咳き込んだ私に、彼女は心配そうに顔をのぞき込もうとする。
「だいじょうぶ」
 そう口に出来たのは、何とか咳がおさまってからだった。苦しさにぼんやりと涙が滲んだ私の目に、彼女のほっとした顔が笑った。
「先輩って、時々ドジっ子になりますよね」
「気管に入ったら、誰でも蒸せるものだよ」
 私の背中をまだ撫でている彼女の手のひらが、制服越しに温かかった。子守歌でも歌い出しそうな表情で、彼女は私を見ていた。
「もう大丈夫。ありがと」
「どういたしまして。このお礼に、またお茶を奢ってください」
「図々しいな」
「かわいい後輩の特権じゃないですか」
「自分で可愛いという後輩は可愛くない」
「事実はいつだって変わらないものです」
「そんなに自分の見た目に自信があるんだね」
「いいえ」
 彼女は思い切りのいい笑顔で頭を振った。きれいな髪の毛先が踊る。
「私は、私が好きなだけです。私は、私の見た目も中身も、総じて可愛いと思うし、大好きです。だから、他の誰の総評も関知しません」
 彼女の目の色はやさしい。しっかりと芯のある人にしかない色味が、輪を作っている。あなたと一切関わりのない彼女の中に、あなたが揺れて重なることがあるなんて。ぐっと、刃物の先端が胸に浅く入った。そのまま柄をひねったような、痛みが罅のように走り、血管に直接伝わっていった。
「先輩、本当に大丈夫ですか」
 私は思わず胸を押さえて背中を丸めていた。私の表情を確認しようと、後輩は私の肩を押し上げた。持ち上がっていく上体に、私の頬を、痛みからの汗が流れていった。
「顔色、すごく悪いですよ」
「大丈夫。すぐに治まるやつだから」
「どこか悪いんですか」
「どこも」
 私は皮肉を言うように口端を持ち上げた。無理に背筋を伸ばし、自分の胸から手をはぎ取った。
「この本、ありがとう」
「いっしょに返してくれていいのに」
「私に勧めたら、自分でも読みたくなったんじゃないかと思ってね」
「あ、たしかに」
 鞄から取り出した本を、後輩へ返す。彼女は、手に戻った本を少しの間見つめ、労るようにその角や表紙を撫でた。それは年端のいかない弟妹の頭を撫でているようだった。または、かけがえのない自分の一部が長旅から戻った時のような、愛情が触れられそうなほど濃く、周りの空気に滲む行為だった。
「ほんとうに、本が好きなのね」
「大好きですよ」
 胸にその本を抱きしめ、彼女は立ち上がった。私の前でくるりと向きを変え、私を見つめた。
「私、大好きなんです」
 はっとするほどのきれいな目をしていた。光が背中を押したのかもしれない。彼女の肩の線が、金色に結ばれていた。笑顔というには複雑な色が、顔のあっちこっちに散っていた。
「先輩具合が悪そうなので、今日はお開きにしましょう。その代わり、明日ここで待ち合わせしましょう」
「いいよ」
 後輩は、今度はきっちりと笑いながら、鞄を持ち上げた。飲み終わった缶をすぐ側のリサイクルボックスに放り込みながら、本を抱いて不自由な手を小さく振っていた。





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