![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/111387345/rectangle_large_type_2_c345aefd6ae4cff185b12980029db5fb.png?width=1200)
【あなたはきれい】(ちいさなお話)
「母さんって、きれいだね」
かけられた言葉に、私は反応が遅れた。彼はにこにこと笑ったまま、私の表情を楽しんでいる。
「それ、久しぶりに言われた」
「昔はよく言っていたよね」
「よくは言ってないよ。二回くらいだよ」
「世の中の息子の中では、トップクラスに言っているほうじゃないかな」
たしかに、と思いながら、私はまた目を元の場所に戻した。白い画面の中には、蟻のように列を生す文字の背中。怠けている三割もちゃんといる。私はいくつかの文字を打ち込んでから、再びパソコンから顔を上げた。
近くの椅子に腰を下ろした彼は、リラックスした様子で片膝を抱え、何か文庫本を読んでいた。
「ねえ、何読んでるの」
「この前文庫になったやつ」
どうやら私の本を読んでいるらしい。
「面白い?」
「うん。前より面白い。解説のおかげだね」
「解説から読むなよ」
「読者の勝手だよ。母さんだって解説から読むじゃない」
「作者の前では本編から読むものでしょ」
「作者の前で読むことなんて、この家くらいでしかないんだから、いいじゃない」
「逆に気をつかってよ」
私の声には目もくれず、彼は私の言葉を吸い上げ続けていた。彼の黒い目の中に吸い上げられる物語の言葉たちは、UFOに攫われる人たちの姿に重なる。私は彼の横顔を見ていた。奥の窓が、光で白く広がっている。その中でぼんやりと線を滲ませる彼のほうこそ、うつくしいと思えた。
「まあ、うつくしいときれいは違うけど」
言った私は、もう自分の指先も見えていなかった。私の中に降りる。階段はないけれど。
「今は何を書いているの」
彼の声に、遠い口は動く。
「新生児の頃に捨てた息子と、母親と名乗らないまま暮らす女の話」
「ラブストーリーだ」
「よく分かったね」
「だって、母親と息子の話なんて、そうなんじゃないの」
「そっか」
うん、と彼が言ったのを聞きながら、私は、女を見る息子の言葉を吐き出していた。彼はきれいだという。自分が触れないことで成り立つ純粋な女の状態を、愛そうとしている。うつくしさは壊したくなる。だから彼は母親をきれいだと思う。それを面白いと飲み込む女の性根さえも。血の繋がりのことを知らないまま、この女を母として自分の人生に埋め込むことを、つよく決意している。幸も不幸も、関係ないひとたちの話だった。
「ね」
「何」
息子の声も沈んで聞こえる。彼の見ている世界は私の与えたものではない。彼の内側に落ちていった細胞は私から与えられたものでも、それを使って世界を構築しているのは彼なのだ。小説を読むことは、結局作り上げることと似ている。材料を探したか、与えられたか。それだけの違いなのだ。
「母さんのどこがきれいなの」
「顔だよ」
「すごくふつうの顔だよ」
「そうだよ、僕の母さんだもの」
「でもきれいなのか」
「そうだよ。僕の母さんなんだから」
私はキーボードをたたき続けていた。そうか、と息を吐きながら。明るい午後は落ちていく。その速度に爪先だけを付けていた。私の存在の殆どを違う時間に浸しながら、それでも一部だけは、ここに残している。
どうせ、もうすぐ彼は言うのだ。
「母さん、お腹が空いた」
伸びやかに。私をきれいと言ったのと同じ言葉のやわらかさで、命の糧を甘えるのだ。
(7月22日、文芸会にて発表の短編)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?