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【あなたはきれい】(ちいさなお話)

 

「母さんって、きれいだね」

 かけられた言葉に、私は反応が遅れた。彼はにこにこと笑ったまま、私の表情を楽しんでいる。

「それ、久しぶりに言われた」

「昔はよく言っていたよね」

「よくは言ってないよ。二回くらいだよ」

「世の中の息子の中では、トップクラスに言っているほうじゃないかな」

 たしかに、と思いながら、私はまた目を元の場所に戻した。白い画面の中には、蟻のように列を生す文字の背中。怠けている三割もちゃんといる。私はいくつかの文字を打ち込んでから、再びパソコンから顔を上げた。

近くの椅子に腰を下ろした彼は、リラックスした様子で片膝を抱え、何か文庫本を読んでいた。

「ねえ、何読んでるの」

「この前文庫になったやつ」

 どうやら私の本を読んでいるらしい。

「面白い?」

「うん。前より面白い。解説のおかげだね」

「解説から読むなよ」

「読者の勝手だよ。母さんだって解説から読むじゃない」

「作者の前では本編から読むものでしょ」

「作者の前で読むことなんて、この家くらいでしかないんだから、いいじゃない」

「逆に気をつかってよ」

 私の声には目もくれず、彼は私の言葉を吸い上げ続けていた。彼の黒い目の中に吸い上げられる物語の言葉たちは、UFOに攫われる人たちの姿に重なる。私は彼の横顔を見ていた。奥の窓が、光で白く広がっている。その中でぼんやりと線を滲ませる彼のほうこそ、うつくしいと思えた。

「まあ、うつくしいときれいは違うけど」

 言った私は、もう自分の指先も見えていなかった。私の中に降りる。階段はないけれど。

「今は何を書いているの」

 彼の声に、遠い口は動く。

「新生児の頃に捨てた息子と、母親と名乗らないまま暮らす女の話」

「ラブストーリーだ」

「よく分かったね」

「だって、母親と息子の話なんて、そうなんじゃないの」

「そっか」

 うん、と彼が言ったのを聞きながら、私は、女を見る息子の言葉を吐き出していた。彼はきれいだという。自分が触れないことで成り立つ純粋な女の状態を、愛そうとしている。うつくしさは壊したくなる。だから彼は母親をきれいだと思う。それを面白いと飲み込む女の性根さえも。血の繋がりのことを知らないまま、この女を母として自分の人生に埋め込むことを、つよく決意している。幸も不幸も、関係ないひとたちの話だった。

「ね」

「何」

 息子の声も沈んで聞こえる。彼の見ている世界は私の与えたものではない。彼の内側に落ちていった細胞は私から与えられたものでも、それを使って世界を構築しているのは彼なのだ。小説を読むことは、結局作り上げることと似ている。材料を探したか、与えられたか。それだけの違いなのだ。

「母さんのどこがきれいなの」

「顔だよ」

「すごくふつうの顔だよ」

「そうだよ、僕の母さんだもの」

「でもきれいなのか」

「そうだよ。僕の母さんなんだから」

 私はキーボードをたたき続けていた。そうか、と息を吐きながら。明るい午後は落ちていく。その速度に爪先だけを付けていた。私の存在の殆どを違う時間に浸しながら、それでも一部だけは、ここに残している。

どうせ、もうすぐ彼は言うのだ。

「母さん、お腹が空いた」

 伸びやかに。私をきれいと言ったのと同じ言葉のやわらかさで、命の糧を甘えるのだ。



(7月22日、文芸会にて発表の短編)

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