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『霧人』〈小説〉1


<あらすじ>
霧の深い森の中。夜、小屋の戸を叩く音が響く。
主人公の「私」が戸を開けると、
そこには旅人が立っていた。
一夜の宿を願う旅人に「私」は渋るのだが、
そのとき旅人の腹から腕が突き出た。
それはこの霧深い森の中で存在する不思議な存在「浮霊」だった。
浮霊は小屋の中を練り歩き、そして一本の白い花を残してきた時と同じ静かさで出ていく。
思わず開いてしまった戸に、仕方なく宿を提供することにした私だったが、
翌日もまた旅人は去る様子はない。
旅人は何故、留まるのか。この森に留まる私の心のうちにあるのはいったい何なのか。二人の登場人物を通して、愛のその後を見つめる物語。



 

ここは霧が泣くように立ちこめる場所だった。

 どこへ行けるわけでもない。その中にいることが、少なくとも償いになると考えている人間は、どれほどいるだろうか。

 ここは諦めるための場所。または、自分自身の大切なものへの無知を暴かれる場所。かすかな希望くらいでは、ここでは一緒にいられない。

 愛に貴賤はないけれど、愛には定型があるという。

 そこからはみ出すようなものを、入れておくための場所。それがここだった。

 立ちこめる霧の涙は、閉じ込められた私たちの涙ではない。これを入れていることへの憤り。この場所自体から滲みだす。ここでは、霧が晴れない。

 

 

 ドアを叩く音が響いた。

 質素な小屋のなかで、私は体が跳ね上がりそうになるのをこらえ、小さな震えだけを足先へとうつした。丸く見開いた目で、音を立てたドアをじっと見ていた。疑わし気な視線に気づいたかのように、再びドアは叩かれた。先ほどよりもたしかに、少し大きな音で。

「誰」

 足音を忍ばせ、声は出来る限り低く、私はドアの向こうへと問いかけた。夜。外には、霧が白く満ちている。窓の外は、恐らく白一色で何も見渡せないだろう。暗闇の中の小さな灯火に、何が迷い込んだのか。体を満たしていくざわざわとした予感に、思わず私は手近にあった手鏡を取った。こんなものが何になるのかと思いながら。

 ドアの前まで来ると、そっと耳を付けた。聞こえる、といえるかどうかの息遣いが感じられた。外に広がる森の方が、よほど大きな音を鳴らしていた。

 私はもう一度、問いかけた。

「いったい誰が、そこに立っているの」

「旅人です」

 返って来たのは、若い男の声だった。喉に湿気が籠もっていて、少し声が出しにくいのだろう。困惑が滲んでいた。恐怖を感じていることへの、困惑かもしれない。

「旅をしているものです。この森を通り抜けようとしていたのですが、思っていたよりも深い森で、出発は朝早くだったのに、もう夜になってしまいました。何をお願いすることもしません。食べ物は、多少ですが持っています。ただ灯のそばに居させてくださいませんか。こんなことははじめてです。この森なのか、霧なのか、不思議なほど心を追い詰めようとするようなのです」

 今にも憐れに泣き出しそうな旅人の声に、私は細くドアを開けた。霧がふっと新たな満ちる場所を見つけて入り込んでくる。それを追い払うことはできない。私は舌打ちをしそうになるのを堪えて、旅人を見た。

 森のような複雑な色のマントを羽織り、フードを深く被ってはいたが、うっすらと窺える顔立ちは素直で、飾り付ける気が少しもないようだった。ただ目だけが、うっかり見つめると光を感じとってしまうような、真っ直ぐさだった。

 それは私を見ていた。

 混乱の中に開かれた戸口の内側をではなく、私の目を、その目は探しあて、見ていた。

「旅人なら、見知らぬ森に入るときには、用心を重ねて、周りの村落でよく話を聞くべきじゃないか」

「その通りです」

「聞いたのかい?」

「いいえ」

 旅人は頭を横に振り、少しばかり俯いて言った。

「わたしには、話をして止められるのを避ける必要があったのです」

「それじゃあ、もっと気持ちを強くもってから入るべきだったね」

「その通りです」

 旅人は言いながら、その口元に笑みを浮かべた。それは自分を笑っているようなひしゃげたものではなく、ただ人と話している状況に安堵して浮かべた笑みだった。

「旅人さん、あんたにはこの家が大きく見えるかい?」

 旅人は素直にまた首を横に振った。

「だったら分かるだろうけれど、私ひとりが住まうのにいっぱいの場所しかない家なんだ。あんたを一晩だろうと置いてはおけないよ」

 他をあたってくれ、と言おうとした私の前で、旅人は大きく驚愕の表情を浮かべた。それは恐怖に近く、それなのに、僅かに何が起こったのかを知りたいと願う好奇心が少量、確かに光っていた。

 旅人のちょうど腹のあるあたりから、ほとんど枯れかけた苔のような色の腕が生えていた。それを見下ろして、旅人はこれ以上無理だというくらいに目を見開いた。そして一瞬で体の自由を呼び戻し、その場から飛び退いたのだった。

 旅人の体に、穴はなかった。旅人が横へ退いた代わりにそこに現れたものがあった。それはゆっくりとした動きで室内へと入り込む。人型をしたそれに、私は不快感の全てを込めて眉間に深く皺を刻み、睨み付けた。薄汚れたマント。体中を覆い、深くフードを被っている。その奥に、顔はなかった。闇だけが存在していることが理解できる。そしてそれは遠慮の欠片も持ち合わせずに、狭い室内へと踏みこんだ。部屋の中を歩きだしたのだ。一体でも不愉快だというのに、あとに同じようなものを従えて、ずらずらと。今日は七つだった。影をつれたそれらは、部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルの周りを一周し、板を合わせただけのベッドを撫で、水瓶の縁をこすり、窓のひとつをマントの裾で拭った。そして音を立てることなく、来たときと同じように少しばかり開いたままのドアから、出て行ったのだった。

 残ったのは、不機嫌が顔を荒れ狂わせている私と、そして未だに衝撃から立ち直れていない旅人だけだった。旅人は呆けた顔をしたまま、さっきその目の前を通り霧に溶けていった何かを、目で追いかけようとしていた。小刻みに震えているその肩をみて、私は大きな溜息を吐いた。

「旅人さん。あんたは浮霊に礼を言えばいいよ。今夜だけは入れてあげよう」

 言いながら、私は頭を掻いた。手鏡を持ったままだったことが、余計に不機嫌に拍車を掛けている気がした。そう思うと、今すぐにも手を開いて放り出した気持ちが湧いたが、ぐっと堪えて、テーブルの上へと置いた。背中から霧の冷たさが這い上がる。声を低めることは止めたが、不機嫌が固くした声で、私はドアの前で立ったままの旅人に話しかけた。

「入るならさっさと入ってくれないか。霧が入りすぎると、灯なんてあっという間に消えちまうんだから」

 私の言葉にやっと我に返った旅人は、急いでドアの内側へ滑り込み、その手でしっかりと薄いドアを閉めたのだった。

 

 

 遠くに行くことはできない。
 ここでいっしょに暮らした夢が凝っている。

 

 第二話

第三話

第四話

第五話

第六話

第七話

第八話

最終話


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