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『霧人』〈小説〉7

 
 
 男は水を汲んで戻ってくると、私たちにその水を飲ませ、また再び小屋を出ていった。そして暫くすると戻ってきて、私に立てるかと聞いた。頷く私に、外に出ようと誘った。彼女はベッドで眠っていたので、そのまま置いていくことにした。置手紙などできる紙もペンもなく、私は持ってきていた目隠しの布を彼女の手に掛けていくことにした。
 外に出ると、まずその暗さに驚いた。森の中とはいえ、開けた場所にいるはずなのに、陽光はぼんやりと薄まり、その温度はあまりに脆かった。
 私が付いてきていることを確認しながら、男は歩き出した。時折こちらを振り返っては、その足を止める。その心につい速めた足が、もつれた。地面にぶつかると思った私は目を閉じていたが、その衝撃はいつまでもやってこなかった。そのはずだ。男が私を抱きとめ、そしてそっと起こしてくれていたのだから。
「すみません」
「いや、こっちの配慮が足らなかったよ。あなたは休んでいなかったのに、連れ出してしまってすまない」
 男はそう言いながら、そっと私の片腕に手を滑らせ、肘のあたりを手の平で抱いた。
「こうして進めば転ばないでしょう」
 言いながら先ほどよりもゆっくりとした足取りで、男は歩きはじめた。私は男の手の平のあたたかさに添われ、少し体の動きがもとに戻ったような気がした。
 男は少し歩いて、周りに小屋があまり無い場所までやってきた。集落、と言っていいのか分からない戸数しかない場所だが、その外れにやってきたようだった。そこには男の小屋とそれほど大きさの変わらない小屋がひとつ、ぽつりと建っていた。
 男が私の腕からその手を離した。そのまま小屋に近づき、その戸をそっと押し開けた。男の小屋とは違って、内側に開く造りの戸だった。中を覗くと、うっすらと埃が舞っており、ここに誰かが住んでいる様子がないことが分かった。
男は振り返り、私と向かい合った。その場に座り込み、隣を手で示して私にも座るように言った。それに素直に従い、男の隣へと腰を下ろす。
「あなたたちは二人でひとつの小屋を使ってもらいたいのだけど、いいかな」
「ええ、もちろん」
 私は男の顔を見上げながら、住む場所を得たことへの喜びが外へ漏れ出さないように頬に力を込めた。ふやけた顔はみっともないと、母が言ったことを私は忘れられなかったのだ。
「ありがとう。とても助かるわ」
「よかった」
「あの、聞いてもいいかしら」
 男は笑みを浮かべたまま頷いた。それが社交辞令の頷きなのかは、私には判断ができなかった。男は微笑んでいるけれど、けして感情を表に出しているようではなかったからだ。常にその表面は加工が施されている。そんな気配を伺わせるところまでが、男の計算のようだった。嘘を常用しているひとの、本当を嗅ぎ分けることは、とても困難だ。あれほど気持ちを通わせてきたと思う彼女のことでさえ、私はどこか、まったく異質な化け物のように感じる瞬間があるのだから。
「あなたは、誰かを待っているの?」
 男が私たちにした質問。誰かに会わなかったか、と聞いた。その時の男の表情だけは、何一つまやかしの働いていない表情だった。
「ごめんなさい。いきなり立ち入ったことを聞いてしまって。あまりにあなたが親切だから、何かできることがあるかと思ったの」
「いや、大丈夫。別に隠していることじゃないんだ。ぼくはね、ここに君たちみたいに二人でやってきた。最初は少し絶望もしたし、慣れた世界と切り離されてショックも大きかったけれど、なんとか持ち直して二人で生活を続けることが出来るうになっていった。でも、ある日、浮霊が花を落としていったんだ」
「ふれい」
 私の疑問に、男は丁寧に答えてくれた。ここから出ていくには浮霊が落とす白い花が必要であること、白い花は植物ではなく、水にも火にも変化すること、そういったことを話しながら、男はぼんやりと恋人のことを思いだしているようだった。横顔の線は滲むようにぼやけ、男の魂の一辺がここではない時間に接していた。
「白い花があれば、ここを出ていける。それが分かったら、恋人はここを出て行きたがった。不便で、楽しみの無い、薄暗いこの森を出ていくと、言って聞かなかった」
 男は困ったように眉をしかめて見せていたが、その目はとろりとやさし気で、恋人のもとに未だに心はあるのだと語っていた。
 私はその様子を見つめながら、私自身ならばどうするだろうかと、考えずにはいられなかった。
「ぼくたちは話し合いを重ねた。時には罵り合い一歩手前までいったけれど、どうにかお互いに最後の尊重は持ち合っていられた。そして結論としては、ぼくと恋人は別々に生きていくことを選んだ。ぼくは恋人に白い花を渡し、そしてここに残った」
「どうしていっしょに出ていかなかったの」
「白い花はひとりに一本。二人では出ていかれない」
「じゃあ、もう一本が贈られるまで待てばよかったのに」
「ぼくもそう言ったよ。でも、恋人は待てないと言った。怖かったんだろうね。食べ物も必要としない、年も取っているように感じないこの場所にいることが」
「年をとらない?」
「いや、確信じゃないよ。そこまで長くここに残る人がいないから。それにここにいると時間の経過がぼんやりとしてしまうからね。でも、ここでは髪は伸びない。爪も。ただ、水分が足りなくなると罅割れていく」
 私は自分の手を思わず見た。きれいな、とは言えないけれど、見慣れたすこしかさつく肌を撫でた。丸い爪はいつ切っただろうか。爪の間には昨日握りつぶした青草の色が僅かに残っていた。
「不思議な場所ね」
「そうだね」
「私たちの村は、罪人としてここに私たちのようなひとを送り込むけれど、ここはそんなにひどい場所なのかしら」
「どうだろうね」
 男は言いながら立ち上がった。話は終わりだということらしい。私も立ち上がり、服に付いた草を払った。
「ここは、誰も住んでいないから好きに使ったらいいと思う。ここの人たちは基本的には関わってこないけれど、ここに長くいることで人間の何かがすり減っているような人もいる。だから中にいるときは戸を必ずしっかりと閉めておくんだ。鍵はないけれど、必要ないと思う。ただ開いているということが、刺激になることがあるってことだから」
「わかった。ありがとう」
「今日はぼくの小屋で休むといいよ。ベッドは狭いかもしれないけれど、二人で使ってくれていい」
「それはさすがに申し訳ないのだけど」
「いいさ。お客なんてめったにないことなんだから」
 男は気さくに笑いながら手を差し出した。今度は手の平を合わせて、私と男は歩いて小屋へと戻った。何一つ分からなかったときよりも、ずっと安心した気持ちで私は歩いた。
 
 
 
 その日の夜、彼女に横へ寄ってもらい、私ははじめて彼女と同じ布団で眠った。布団は少し湿っているような、薄いのに重たく、いくら中に籠っていても少し体温を吸い込むだけで、こちらには返すことはなかった。
 彼女は私に背を向けていたが、その耳に向かって私は小さな声で話しかけた。
 男が案内してくれた小屋のこと。見た目は質素だけれど、ふたりで整えればよくなるだろうこと。掃除は明日からはじめようと思うこと。浮霊や、白い花のこと。_けれどその花がここを出ていくために必要なことは話さなかった。言葉を重ねる私に、彼女はけして返事を返さなかった。そんな彼女に、私は気分を曇らせはしなかった。
 疲れているのだろうと。そしてそう思うことにして、私は男のしてくれた恋人との話も彼女に黙っておく自分を許すことにした。男が私を支えてくれたことも、その手を握り合って帰ってきたことも。私は話さなかった。ただ胸のなかで、男の静かな手の平のあたたかさを思いだしていた。彼女の背中を見つめながら、闇に慣れる目を持て余し、同じ小屋の中に男がいるという事実に鼓動を強く感じながら、私は夜を過ごした。
 翌日も、彼女は起きなかった。ベッドに寝たまま、私を見上げた。
 その目はやはりガラス玉のようで、私はまた胸が不安で煙った。いくら手で払おうとも、どうすることもできず煤はたまる。それでも私は笑顔を浮かべ、彼女に話かけた。
「掃除にいってくる。少しでも住めるようにしてくるから」
 彼女は私の言葉に頷くでも、首を振るでもなく、ただその目で見つめていた。私を疑っているのではない。まるでいないもののような扱いだった。
 私は男から掃除に使えそうなものを借りた。毛の落ちる箒や、ぼろ布の雑巾、一つしかない桶も貸してくれて、水場にも案内してくれた。
「水は冷たいから、あまり長く触らないように」
「ありがとう」
 男は昨日の小屋のところまで桶を持ってくれた。戻っていく男に、私は彼女がベッドを占領してしまっていることを謝った。男は笑いながら、「構わないよ」と言った。
 掃除はできることが限られていたけれど、それでも最初に比べれば見違えるほどにきれいになった。床の土埃を払い、棚やテーブルの誇りも拭った。窓はあったが、ガラスは嵌っておらず、木の板で蓋をする穴のようなものだったけれど、光が射しこまないよりはましだった。入り口の戸だけは、男が言ったようにけして開けたままにはしなかった。
 おぼろに明るいだけのこの土地だったが、夕暮れの時刻になれば、やはり滲むように赤く空は染まった。
 掃除の成果を見届けて、私は男の小屋へと彼女を迎えに行った。薪などはなかったけれど、寒さに凍え死ぬような季節ではなかった。二人で昨日のようにくっついて眠ればいいだろう。彼女はベッドの無い場所で眠ることを渋るかもしれない。そうなったらどうしようかと考えながら男の小屋の戸を叩いた。返事はすぐあり、男が笑顔で出迎えてくれた。掃除の進み具合を聞いてくれ、上々であることを伝えた。掃除に借りていたものを返し、もう一度丁寧に礼を伝えた。おっとりとまた「構わないよ」と言った男に、私は寝床のことを相談した。男もそれを考えていてくれたようで、男の持っている服を少し分けてくれた。よかった、これで少しは何とかなる。そう思い、彼女の方を見ると、彼女はベッドの上に起き上がっており、そして恐ろしい顔で私を睨みつけていた。
 男もその表情に気付いて、彼女に「どうしたの」と言葉をかけた。彼女は男に目を移すと、わっと前に倒れ込むようにして泣き出した。
 驚くというよりも、途方に暮れて立ち尽くした私とは違い、落ち着いている男はそっと彼女の肩を撫で、その顔を上げさせた。
 涙でびしょ濡れの彼女の頬に、男は手の平をあてた。
「どうして泣いているの」
 しんとした声で聞かれ、彼女は嗚咽をもらしながら切れ切れに言葉を話した。
 彼女は私といっしょに住むことはできないと言った。私に愛情がないことが理由だと泣いた。今日だって本当はずっと隣にいてほしかったこと、彼女よりも生活を整えることを優先されたことに傷ついていること、どれだけ彼女自身が私を愛していて、そしてその気持ちを返してもらえていないと感じてきたのか。言葉は滝のように彼女の口から溢れかえり、そこら中に飛び散っていった。
 いったい彼女が何を言っているのか、私には分からなくなっていた。
 男だけが、その言葉を否定せず、ただただ聞いていた。泣くだけ泣いた彼女を、男はそっとベッドに戻し、私の方へとやっと向き直った。
 目を閉じた彼女が、私には恐ろしかった。またすぐに起き上がって、どうどうと言葉を流すのではないかと。怒りや困惑よりも、深く私は怯えていた。
 それを敏感に感じ取ったらしい男は、そっと私のそばに寄り、大きな手で私の肩を包んだ。口を耳のあたりへ持っていき、囁いたのだ。
「今夜は、彼女を預かろう。また明日おいで」
 私は、黙ってその言葉に頷いた。正直に言えば、有難いと思っていた。こんな化け物のような彼女と二人で夜を超えるなど、とても恐ろしかった。
 私は男の背に隠れて見えなくなった彼女に、小さく「おやすみ」と零した。
 男が渡してくれた衣類を抱きしめ、私は男の小屋を出ていったのだった。
 結局、彼女がこの小屋から出てくることはなかった。


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