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『霧人』〈小説〉6


 私たちは歩いた。目指すべき場所があったわけではなかったけれど、その場に居続けることよりも、歩き出す方が恐ろしさがましだっただけのこと。
 進むべき方向など分かるはずもなく、私たちは冷たく濡れた草を踏み分け、静かすぎる森の中を歩いた。動物の気配どころか、虫や鳥の鳴き声も聞かなかった。それなのに生きているものの気配だけは充満している。
 緑色は独特の深みを持ち、霧の白に対比されてうつくしく、そこに存在していた。私の知っている緑とは異質なその色は、けして安心や清々しさを私に与えてはくれなかった。
 彼女は私の手を堂々と握り、軽く揺らすようにして歩いた。鼻歌でも歌いだしそうな彼女の横顔をちらちらと見ながら、私は今まの歩き方と変わりないように気を付けながら隣を歩いた。
 そっと夜は来て、知らないうちに去って行った。驚くことに私たちは、まるで夢の中をさ迷うように歩き続けていた。私も彼女も疲れを感じることはなく、周りの景色の方がするすると後ろへと遠ざかっていくような気さえした。明るくなり、暗くなり、明るくなった。私たちは、急に開けた場所へと出た。
 
 
「それが、ここ」
「ここ、ですか」
「今とは少しばかり住んでる顔ぶれは違う。様子も、違うかもしれない」
「あなたと彼女は、ここでともに暮らしていたんですか」
 私は頬杖をついて花の燃える様子を目におさめた。
「いいや。最初、ここに暮らしていたのは男だった」
「どんな」
「やさしい男」
 私は溜息のようにそう零した。
 そうだ、たしかにあの男はやさしかった。おだやかに、さみしそうに、笑う。声は少し冷たそうだったけれど、笑い声は丸みをもっていて、転がるどんぐりのようだった。
「やさしい男だった」
 私は話を続けた。
 
 
 私と彼女は静かに身を寄せ合って、開けたこの場所を見て回った。
 ちいさな畑のような場所があったが、土をいじったあとだけで、何も野菜は育てていないようだった。家というには粗末な、木でできた建物がいくつか距離をたもって建っていたが、あまりにも静かで、私たちは自分たちの心音が外に漏れているのではないかと無意識に胸を抑えていた。
 不安と静寂が頂点で結び合った頃、私たちの目の前で一軒の小屋の戸が開いた。そのことに飛び上がるほど驚き、そして同時に溢れんばかりの歓喜を感じた。他の生き物がいる。それがこんなに心を安らげることだと、私はその時はじめて知った。彼女も同じように感じていたのだろう、私と寄せ合った体を引きはがし、私の手を引っ張ってその戸の方へと足を速めた。
 小屋から出てきたのは、ひとりの若い男だった。年のころはその時の私たちとそれほど変わらなかっただろう。男が、痩せこけていたり、目に光が無かったりしたならば、きっと私たちはそのまま走りだして、この森へ再び入り込んでしまったかもしれない。
 けれど、男は私と彼女を一目見て、ただ悲しそうに、そして少し嬉しそうに微笑んだのだった。
「やあ、おはよう」
 その声に、私たちの気力は尽きてしまった。お互いに体の力が抜け、その場に座り込んでしまったのだった。男は驚く様子もなく、私たちのそばへ座り込み、いくつかの質問をした。
_いつこの森に入ったのか。
_この森に入って食べ物を食べたか。
_水は飲んでいるか。そして、
「誰かに会わなかった?」
その最後の問いを聞く時だけ、男の目はきらりと光り、追いすがりたいほどの欲望をどうにか抑え込んでいるように見えた。誰にも会わなかったと答えた私たちに、男は短くため息を吐くように「そう」と言った。
 そして立ち上がり、男は今出てきた小屋の中に通してくれた。私はなんとか一人で立ち上がれたが、彼女のほうは全く体に力が入らないと言い、男に肩を借り、抱き運ばれるような状態で中に入った。男は彼女を自分のベッドに横たわらせ、私には椅子を勧めた。礼を言う私に、男は「水を汲んでくる」と言って出ていった。
 小屋の中には明りらしきものはなく、竈と暖炉の両方を兼ねているのだろう、石を積み重ねて作られた歪な囲いの中で、赤い炎が揺らめいていた。その周りだけが貧しく明るかった。
 外は恐らく朝が明けた時間なのだろう。男は戸をぴたりと閉めて出ていったために、外の様子は分からなかったけれど、いくつかの建物の中から動き出すものがあることを、かすかな音で知ることができた。
 彼女はベッドの上で仰向けになって、じっとしていた。私はそばに椅子を持っていって座った。彼女は白い手を胸のあたりで組み、薄暗い場所で見るからか、どこか死人めいた空気を纏っていた。ぼんやりと開いた目も、ガラス玉のようだ。
 私は足先から這い上る冷たさをどうにか追いはらおうと、その透明な球体に話かけた。
「親切なひとでよかったわね」
「そうね」
 彼女の声は、今までで一番硬く私に響いた。その声音に驚いている私に、彼女はゆっくりと起き上がり、私の手をひとつとった。冷たい手だった。
「私のこと、怒ってる?」
 探るようなその目に、私は動揺を必死で隠した。
「そんなことない」
「ほんとに?」
「本当よ。だからあなたの手を取ってここにいるんじゃない」
 その言葉に、彼女は少し考えるような顔をし、私の目から手に意識をうつし、暫くの間両手で撫でたり、揉んだり、包んだりした。まるでこの手に、何かが書かれているのを確信しているような動きだった。それは今まで同じように誰かの秘密を解き明かしてきた研究員の、実験へ移る前の従順な手順を進めるような仕草だった。
 彼女はもう一度私を真っ直ぐにみて、にっこりと笑った。
「よかった。私はあなたを愛してるわ」
 
 

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