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『霧人』〈小説〉8

 私はここでの暮らしに、自分でも驚くほど早々に慣れた。
 朝は水を汲みに出かけ、小屋のまわりで拾える枝葉を集めた。散歩の延長のようなそれくらいしかやるべきことはない。
 私はいつでも湿っている下草を踏みながら、そう言えばここにきてから沐浴すらしていないことを思いだした。体のサイクルが現実から外れてしまったような、浮遊するような感覚が、いつでも底に揺れている。時間は伸び縮みを好き勝手に繰り返し、私たちにはそれをどうすることもできなかった。それが私にとっては大して不快でも不安でもなかったことにも驚いた。私は、もっと自分のことを繊細な人間だと思っていたのだけれど、どうやら相当に図太く呑気であることを認めなくてはいけないようだった。
 燃やすものが揃えば、数本の太めの枝を持って男の小屋へ向かった。
 男の小屋へ向かうまでにはいくつかの似たような小屋があったが、いつでも、どの小屋でも戸はぴたりと閉じられ、そして静かに内側に潜ませる気配を感じた。
男が戸をしっかりと閉めろというのは本当のことなのだろう。もしこの中のひとつ、戸が少しでも開いていたら、私は好奇心を剥きだしにしてその戸を押し開き、そこにいる人を荒らしてしまっただろう。
数日でこんな思考になるのだ。私よりも長くここにいる人間が、もっと進行した状態であると考えるのは当然だった。
 だからと言って、外をこうして歩くことはけして怖いとは感じなかった。
 いつでも白が視界の端を埋める。肌寒さが皮膚に馴染み、四六時中火を起こしていないと小屋の中にはいられない。拾う枝はいつも少し湿気っていたが、不思議と煙もそれほど吐かずに素直に火は付くのだった。
 彼女はあの日からずっと男の小屋にいた。私には会いたくないと言い、男はその願いを穏やかに受け入れていた。私にそれでいいのかと聞いてくれたが、どうすることもできそうもないと、私は首を振った。
 食べるものは必要ではないとはいえ、生活に入り込んでいることには変わりはない。私はできるだけ木切れを拾い、自分の使う分を超えたそれを毎日男の家に届けていた。
 ここの霧は、水分ではないのかもしれない、と私は考えた。
 まるで人の思念の具現のような色をしている。
 小屋の戸を叩くと、今日は何の返事もなかった。
 いないなんてことがあるのだろうか。そう思ったけれど、無断で戸を開けるということはしたくなかった。
 私の、この時の正しい選択は、恐らく戸の前に持ってきた木切れを置いて去ることだったのだろう。後で振り返ってやっと、正しい行いというのは分かるものだ。私は間違えた。
 そっと足音を忍ばせ、窓のあるほうへと息を殺して近寄ったのだ。やわらかな下草が、こんなにありがたいと思ったのは、私にやましさがあった証拠だった。けれど、彼女の顔を一目見たいとか、男を心配したとか、こんな行動を起こす理由をわざわざ考えなかった。もうすでに私は人ではなかったのかもしれない。
 窓は、約束をしていたかのように少しだけ開いていて、そこからは火の爆ぜる音が聞こえた。
 室内は薄暗く、外の音のように放任的に伸びていったりはしなかった。凝るように少し粘つき、そのとろみは僅かに濁っていた。外の白い朧な光とは違い、小屋の中はオレンジの火が照らしている。影は、ひとつだった。
 水音が繰り返す。
 そっと吐き出される息が、ここでは珍しく熱を多く含んでいた。
 衝動が私の視界を埋めるのを他人事のように見ていた。
 
 
「二人は抱き合って口付けていた」
 私は放り出すように言い切った。あの日の情景は、鮮明なままで私の瞼に投影される。それをどうすることもできない。そう言いながら、放置し続けてきたことを、彼女はやはり怒るのかもしれない。さみしい、と。
「それで、あなたはどうしたのですか」
 旅人の声音は変わらなかった。特別な感情は入り込まず、ただ事実を聞き続けているという姿勢を崩さなかった。
 小屋の中の明るさが、ちょうどあの日のことを振り返らせる。
 オレンジの深い影は揺れていた。二人が密着して少しも動かないことと調整を図るように。
 私は。
「そのまま、自分の小屋に戻った」
「どうして」
「一度頭を冷やしたかった、というわけじゃない」
 私はこみ上げてくるものが怒りなのか、不安なのか、恐怖なのか分からないまま家路をたどった。視界は真っ赤だったように記憶している。そんなはずはないことを分かりながら、それでも私はこの視界の記憶を否定できなかった。あの時の私の目が、どうして真っ赤ではなかったと言えるだろうか。今まで感じたことのない質量の感情が湧きあがっていたのに。体になんの異常もなかったなどと、思う方がおかしかった。
「私は、何か叩き壊せるものを探しにいったの」
 道すがら、私はここ毎日の習慣になっていた、散歩の延長のような薪拾いの時間を思い出していた。何か、人の頭蓋骨を打ち割れるものはなかっただろうか。刃物も、火を使うような武器も、縄さえないのだ。
 人がきちんと壊せるものを、私は探していた。自分の記憶から。そしてそれにぴったりの石を、見つけ出したのだ。
「うれしかった。この場所に辿りついて、人が居たときに匹敵するくらい。小躍りするかと思ったくらい。私は、その握りこぶし二つ分くらいの石を持って、足取り軽く男の小屋に戻った」
 あの時、私にあった憎悪は、誰に向けてのものだったのか。今でも有り余る時間の中でふと思考の穴に取り込まれて考えることがある。
 彼女に対してだったのだろうか。私を愛していたはずの彼女。彼女が壊した私の平和。家族との絆。家族の日常さえ今ではどうなっているのか分からない。あそこは閉鎖的な村だった。それは彼女の両親もそうだろうけれど、二つの家族でいがみ合うことになっているのかもしれないと思うと、嫌悪感で私の胸はむかむかと重い波を立てた。そうまでして、二人でいる道を選んだくせに、私ではないひとを選んだ彼女。嫉妬だろうか。彼女が愛を失ったこと。私を罵ったこと。それが許せないのだろうか。
 男はどうだろう。あれほど親切にしてもらったのに。
「私は戸を開けなかった」
 旅人の首が不思議そうに傾ぐ。その様子が子供のようで、私は口元を少し持ち上げてみたくなった。
「窓からね。入ったんだ。そう、この窓だね」
 私は一つだけの窓を指さした。旅人は、今にもあの頃の私が、そこから足を踏み入れるような想像をしているようだった。実際は物音一つしなかった。
「驚いてた。当たり前だ。もうこの場所に長くいた男には、戸さえ開けていなければ誰も入ってこないと考えていたんだから」
 目を丸くした二人の顔が私を見ていた。恐怖や衝撃はなかった。ただただ私の登場に驚いている。私には、二人の目の中の自分が少しずつ大きく腕を振り上げるところまではっきり見えていた。動きはどんなに頑張ってもなかなか進まず、一歩がいったいどれほどの年月を駆けているのかと思った。
悲鳴は上がらなかった。
音も、想像よりもずっと静かで、彼女の頭を殴りつけた後の、私の息の音の方がよほど大きく聞こえた。
 男は、瞬きを忘れて、その場に立ち尽くしていた。一度、倒れて血を流している彼女を見降ろし、そして私のほうへとその目を向けた。その目には、どこか安堵があった。
「どうしてだろう、って思った。男は、私を見て笑ったんだから」
 けれどそれを確かめることはできなかった。私はすぐにもう一度大きく腕を振り上げ、そして渾身の力で打ち下ろしたのだ。
「今度は血や肉片が私にも飛んだ。生暖かいような気がしたし、物凄い匂いだったのだと思うけど、その時は何も分からなかった。ただ視界が真っ赤に染まっていくのをみて、やはり私は正常だったのかと思っていた」
 肩で息をしていた。大きく持ち上げては、がくっと大袈裟なほど落として。喉が引きつるくらい、たくさんの息を吸い込んでいた。
「私は、二人の死体をそのままに、男のベッドで眠った。ものすごく眠たくて、立っていられないと思ったから。そしたら不思議な夢を見た」
「どんな夢ですか」
「楽しい夢だった。二人とも生きていて、たのしそうな顔をして私を見ている。私も楽しくなって、二人のそばで笑っていた」
 私は目が覚めた時、とてもすっきりとした気分だった。いい夢をみた朝だったからだ。驚くほど長く眠っていた。窓が開いていたのにも関わらず、私は寒さに起きることはなかった。それはどうしてなのかは、すぐに分かった。私の胸の上に、白い花があった。それはじんわりと温かかった。しかし起きた私の手の中で、その温度は一瞬で消えてしまった。ただ、白い花が残っていた。
「そのまま、ここを出ていこうとは思わなかったんですか」
「思わなかった。だって、すぐに惨状をみたから」
 黒くこびりついた血液は、それでも僅かにまだ赤に鮮明を残していた。窓が開いていたから、そこまで空気は籠ってはいなかったけれど、それでも十分に血のにおいだと分かる濃度で錆臭かった。
 彼女の目は開いて、白くなっていた。男の口元は自然に持ち上がっていて、まるで願いが叶ったような顔をしていた。
「べつに、死体をそのまま外に捨ててしまっても、誰が咎めることでもなかった。でも、私自身がそんなことをできなかった。殺しておいてどういうつもりだと思うだろうけれど、本気で、私はそう思っていた。私がきちんと埋めてあげなくてはいけないと」
 そして私は二つあった男の小屋の椅子を一つ壊し、その足を使って穴を掘った。外だと雨に濡れてしまうかもしれない。見たことはないけれど、動物が荒らすかもしれない。室内ならば。
「夢の余韻が私に残っていたんだ。いっしょに、三人で暮らせるんじゃないかと」
 おかしくなっていた。十分に。誰の目もない場所では、こんなにも感情は燃え上がり、そして穏やかに居られるものなんだろうか。人を殺すということはもっと胸に迫るものがあると思っていた。劇薬のようなものだと。それを口にしたものの日常は一変するのだろうと。
 しかし私は冷静に、まず床板を剥いだ。二人の体の分。私は素手でその作業をしたので、終わるまでに傷だらけになっていた。村にいた頃ならば、これで私はその後の作業を放り出しただろう。けれど、私はすぐに一心に穴を掘りだした。細い棒で。気付かない間にどれくらいの時間その作業をしていたのだろうか。大きな穴を完成させ、二人を横たえた時には達成感すらあった。穴の中に引きずり下ろした後、二人の顔を撫で、私は土をかけた。その作業が終わってからも、私の毎日はやはり特段変わらなかった。
「変わったことは、毎日のように浮霊がやってくるようになったこと」
「毎日ですか」
「そう。そして二人の上に白い花を落としていく」
旅人は、そっとこの小屋の中の白い花が積まれた一角を見た。
「そう、その上にある花のほとんどは二人に贈られた花」
 私の平穏は風の果てのように、もうけして追いかけることのできない場所にいってしまったのだと、白い花を見つめながら、私は思い知ってきたのだった。
 複雑だった心は、ここでいる間に薄ぼんやりとしていく。穴が開く手前の生地のように。向こうが透けて見える。昔あったものを懐かしむように、その向こうを見つめながら、私は今、苦しいも悲しいも胸を荒らさないかわり、そこから守られるという感覚も失っていたのだった。


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