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『霧人』〈小説〉終

 私は、だからここを出ていかないのだと言った。私が出ていけば、ここに他の誰かが暮らし始めるかもしれない。それで私がしたことが白日の下に晒される、という恐怖よりも、二人のそばに他の誰かが暮らすということが、私は許せなかったのだ。未だに、三人で楽しい時間を過ごしている夢を見られないだろうかと、期待している。私は余計におかしくなっているのかもしれなかった。

 旅人は、ゆっくりと立ち上がり、そして白い花の積み上げられた覆いの前に立った。布で隠されたそこからは、何の気配も立ち昇らない。

「ここが、人であふれないのは、あなたが経験したような出来事がそのうち皆に起こるからですか」

「そうだよ」

 私は旅人の背中に応えた。肩から足の半分までを覆うマントのために、旅人は過去のぼんやりとした影のように見えた。

「私が二人を埋めてしまってから、久々に外に出た時、ひとりの女もちょうど外に出てきたところで、その女もまた服が汚れていた。そんなことが繰り返し起こる。それが霧の為なのか、こんなところに閉じこもって自分たちの愛ばかり正視させられ続けた結果なのか、そんなことは分からないけれど。ここでは育んできた愛を歪めてしまう」

 そして、ふたりだったものはひとりになるから、ここに建つ小屋の大きさは正しいのだ。二人で暮らすのに丁度いい大きさだったら、きっと一人ものこらない。

 私が出くわした女の背中には、鬼のような女の幽霊の顔が背中に彫られていた。あの出会いをどう捉えているのか知らないが、あれから女は私を見かけると声を掛けてくるようになった。

「これでもう全部だ」

 私は両手を顔の位置まであげ、旅人に言った。出ていけという言葉を包んで、その背中に投げつける。殺人者といっしょに再び夜を超える気にはならないだろうと思ったのだ。それもここに暮らす、恐らく殆どがそうであるという異常な場所で。

旅人は、しかしその意味に気付いているだろうに、振り返らなかった。

 じっと動かない旅人の手の中には、白い花がぼんやりと光っている。

「僕の旅の目的は人探しです」

 旅人の言葉は、静かに落ちていき、薄暗い床に吸い込まれた。うなだれているその首が細く、遠い火の色の端が触る。

「その人は、僕の父です。母は若くして僕を身ごもってしまい、母よりも年下だった父は、責任を逃れて遠い親戚の住む地域へ引っ越していったのだと聞きました。幸運なことに、母の両親、僕の祖父祖母はやさしいひとで、母も僕もけしてつらい生活をしてきたわけではありません。けれど、ふと母が遠くを見て、父を思い出すのを見ていたら、どうしてもそのひとに僕も会ってみたくなったのです」

「それで父親探しの旅?」

「そうです。まずは父の家族と親しかった人たちに頼み込み、引っ越し先を調べました。だけどそこにも父はおらず、初めて会った父方の祖母にその後の行方を聞きました。祖母は僕の来訪をとても喜んでくれて、若い時の父にそっくりだと言われました。そして次に向かった村で、僕は父が恋人を連れてこの森に入っていったと聞きました。役人がやって来る前に、ある程度の準備をして、ここに入っていったのだと。そして僕は話をしてくれた人には諦めて帰るといい、この森に入ったんです」

 旅人は小さく笑い、話を続けた。

「最初はひとりではたどり着けないのではないかと不安でした。食料はある程度用意していましたが、まさかここまで生き物がいない森が存在するなんて思っても見なくて。それでも父に会ってみたくて、進み続けました。そしてやっとたどり着いたのがあなたの住むここでした」

 旅人はそっとマントの内側に手を入れ、何かを取り出した。それを私に見せるために振り返り、テーブルの上にそっと投げた。

 それは色褪せた写真で、若い男性が快活に笑っていた。小屋の中の不親切な明るさでもその身にまとっているマントの不思議な柄が分かった。

私はそれを見慣れていた。もっと薄汚れていて、変色しているけれど、植物の連続が動物のように大きく形を作っている。

「あなたの父親は、私が殺した男?」

「違いますよ」

 旅人は朗らかに笑ったままだった。この旅人が思っていた以上に年齢が幼いのだと、この時やっと気づいた。

「僕の父は、どうやらその男の恋人だったんじゃないかと思います。もしかしたら、それすら僕の想像で、全く別の小屋で死んでいるのかもしれない」

 でも、と旅人は笑顔を深くした。

「この布地は母が手織りしたものなので、恐らく間違いないんじゃないかと思います」

「そう」

「男は、恋人を外に逃がしたと言いましたよね」

「言っていたよ」

「本当にそんなことすると思います?」

 私は旅人の顔を見つめながら、その答えを自分の内側で返した。

 あの男の、最後の穏やかな表情を思いだした。私にも彼女にもやさしかった仕草を。あれは愛情のある触り方ではなかったのだろう。あの男もまた、汚れた服で朝を迎え、そして誰かと顔を合わせたのかもしれない。そして同じ空間で暮らし続けたのかも。

 何もかもが空想、想像、考え事だったけれど。

 旅人はテーブルの上に手を伸ばし写真を再びマントの内側へとしまった。

「僕は、この森の仕組みとか、浮霊のことはよく分かりませんが、ここに居たって気力が削がれていくだけなのだということは分かります。もしかしたら唐突に霧に霧散してしまうのかも」

「そうかもね」

 私もそんなことを考えていた。事実、知らない間に人が減ることがある。一人で残された人は、その後自然と居なくなる。何時ともわからず、私たちはそこへ流れ着くのだと諦めているのだ。

「なら、いっしょにここを出ましょう」

「だから」

 私は言いかけた。ここを離れたら、この小屋にはまた誰かが暮らす。不思議と壊れたりはしない小屋なのだ。あの赤黒かった汚れも、染みになっていた部分もいつの間にか消えていた。ここは状態が維持される。物も、人も。望む、望まないにかかわらない。

「私は行かれない」

「じゃあ、僕も残ります」

 旅人は平然とそう言った。思わず旅人の顔をつよく見つめた。

「あんた、何を言っているの」

「僕は、この森に全てを取られるのが悔しい。だから、あなたを連れ出そうと思います」

「そんなことに私を巻き込まないでくれ」

「いいえ。あなたはここを出るべきです」

「どうして」

「だって、僕をここに置いてくれたじゃないですか」

 旅人はテーブルを回り込み、私の隣へとやってきた。旅人のマントから香るのは、外の空気だった。

「そりゃ、あんたが困ってたから」

「僕に出ていくように言ってくれました」

「当たり前だろ。ここに来た理由を知らなくたってあんたがここにいなくてもいいひとなのは分かる」

「そう思えるのは、あなたの心がまだ間に合うからだと思います」

 旅人は私の肩を掴んだ。旅人の方へと向き合わされ、その真摯な目を注がれる。

「いっしょに出ましょう。花はあんなにあるんだから」

「だけど、それじゃあ、ここに誰かがまた暮らしてしまう」

 思わずこぼれた私の本音に、旅人は納得したように頷いた。そして今までで一番大きく表情を綻ばせた。

「なら、燃やしましょう」

「燃やす?」

 頷き、そして私の手を取った。私を椅子から立ち上がらせ、そのまま旅人は白い花の覆いの布を大袈裟なくらいの動作で取り払った。勢いに乗って、花が舞う。飛び散って、小屋のあちこちに白は灯った。

 旅人はそこからもう一本白い花を拾い上げ、私の方へと軽い足取りでやってきた。

「さあ、出ましょう」

 手を引かれ、その力に私は引きずられるようにして小屋の外へと出た。

 戸は開かれたまま。

 旅人はゆっくりと振り返り、家の中の白へと、その同情へと話しかけた。

「燃えて」

 狭い戸の奥、点々とした白が一瞬でより熱の高い光へと変じる。

 それは周りのものに熱を与え、そこからじわっと透明度の高い赤が生まれていった。

音が、消えてしまったかのような錯覚の中で、私はいつの間にか今まで暮らしてきた小屋がひとつの炎になる様を見つめていた。

ああ、これならば。

「ね、これで心配はないでしょう?」

 旅人が朗らかに私へと言った。呆然とその顔を見返しながら、私は今繋いでいるままの旅人の手に、彼女の手を思い出していた。

 細い手だった。私の好きだった手。

 それは静かに男の手に変わり、あの一度、この小屋へと引いてくれた手を思い出した。恋人のことを話す横顔も。

 私は確かに触れた体温の違いを、今旅人の手の平に溶かしていた。

「そうね」

 旅人の笑顔から、燃える小屋の方に目を向けた。

 こんなに煌々と燃えていても、誰も自分の小屋からは出てこなかった。

 それがここという場所なのだ。

 私と旅人は、自然と歩き出していた。

 白い花は、浮霊の同情は、あの霧の凝固したもののような白は、必ずあの小屋を燃やし尽くしてくれるだろう。

 そっと風が吹いた。

 小屋から離れていくにしたがって、暗くなっていく。

森に入り、何度か振り返ってみたオレンジの光の塊は、やがて完全に見えなくなった。

旅人はマントを揺らしながら進んで行く。手は繋がったままだ。それぞれの繋いでいないほうの手には白い花があった。ほのかに光を散らすその白。それは確かにうつくしかった。

そして私たちは、いつか森を抜けるのだろう。

風が吹く、その向こうに。


〈おわり〉

#ファンタジー小説部門


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