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余情 52〈小説〉

 母に連絡を入れて、今の自分の状況を説明した。彼女のことを聞かれたが、詳しくは話をしなかった。ただ、二人で話し合って出した結果であると言えば、それ以上は何も言わなかった。母は、また車を出してくれると言った。日程も、早いほうがいいと言う私に、すぐの土曜日を空けてくれた。私は礼を言って電話を切った。
 部屋の中は、殆どのものがすでに箱に収まっていた。自分でも驚くほどものがなかった。一度目の十年でも、ものは殆ど増やさなかったけれど、ここまでではなかった。仕事に着ていく服が三着。スーツが一着。部屋着が二着。コートと、上着にも出来るシャツが一枚。Tシャツが二枚。下着は三組。パンツとスカートが二枚ずつ。セーターが1枚。本棚は三段の小さなものがひとつ。その中をいっぱいにもしなかった。その中身はもう箱の中に入っている。ベッドやテーブルを引き取りに来て貰い、布団だけを床に畳んで置いているばかりの部屋になった。何もない部屋は、自分自身の中身と同じだった。この部屋には光が満ちているのだから、同じというのはおこがましいかも知れなかった。私には、暗闇さえ入ってはいない。くすんだ灰色の、背景が一面に置かれている。ここに居てくれるひとを待っている。小さくて、息が詰まりそうな部屋。それが私だった。
 彼女とは朝に顔を合わせたけれど、恐ろしいくらいにいつもと同じ様子だった。違うことは、彼女が私の体調をいつも以上に心配し、食事のことや睡眠のことは専門医に必ず相談するように何度もくり返した。私は「調べる」と約束をして彼女を見送った。彼女の仕事は順調のようだった。仕事場の雰囲気が彼女に合っているらしく、先輩も同期の人間も人当たりが良く働きやすいのだと言っていた。順調に仕事を覚え、一つずつ成長を感じられる毎日に彼女は満足しているようだった。彼女ひとりでも、この部屋を借り続けることは、もう難しくはないだろう。それでも更新までの私の分の家賃を出そうと言うのは、ただの私の満足のためだった。
 今日も明るい部屋の中で、私は思い立って掃除をはじめた。カーテンのレールの埃をとり、窓を拭いた。窓枠の溝に溜まったゴミを洗い流し、家具の上にうっすらと積もった埃も払った。彼女もよく掃除をしているからか、思った以上に部屋はきれいだった。それでも床を磨き、玄関の土を掃いた。洗面台を磨き、鏡の水滴の後を拭き取った。風呂の中、壁、シャンプーやコンディショナーの入れ物の底も拭った。台所のシンクを洗い、ドアノブまで拭き上げた。
 やっている間は夢中でやっていたけれど、一応の終わりを認めると体にいっきに疲れが溢れた。目眩がして、素直に床に座り込んだ。そのまま掃除したばかりの床に倒れ込み、私は目を閉じた。瞼をなでる光が、投げ出した腕や足先を撫でていく。こんな優しさを、私も彼女に返せたらよかった。そんなことを思い、思っただけである程度満足するくらいならば、いっそ何も思わない方が誠実な気がした。
 そのまま私は眠ってしまった。目を開けた時、世界は赤く染まっていて、私はぼんやりと部屋の壁を眺めた。
 やっと起き上がった時、久しぶりにお腹が空いたと感じた。義務で口に食べ物を押し入れるのとは違い、自分が望んで口を開けたいと思っていた。
 開けっ放しだった窓から、穏やかな風が吹いてきた。洗濯物を片付け、台所に立った。冷蔵庫の中を覗いて、余っていた野菜と豆乳でスープを作った。鍋をかき混ぜながら、じんわりと汗が滲んできていた。そろそろ冷房を掛けておかなければ、帰り着いた時に彼女がかわいそうだと思い、窓を閉めた。リモコンでスイッチを入れ、涼しい風が顔に吹き下ろされるのを、しばらく下に居て楽しんだ。
 彼女が帰って来て、いつもと逆にお風呂が湧いていることを伝え、先に入るように言った。彼女は嬉しそうにそれに従い、さっぱりとした顔で戻り、夕飯のスープを見てまた喜んだ。
 昨日と同じように向かい合って私たちは座った。彼女は仕事のことを話し、私は部屋の掃除をしたことを話した。彼女は「きれいになってると思いました」と笑顔で言った。
 食事を終えた彼女は、皿を片付けながら口を開いた。
「もう、荷物はまとまったんですか」
「うん」
「だと思いました。やることがなくなったから、掃除なんでしょう。本当にあっちもこっちもきれいになってますもんね。体を休めるために仕事辞めたのに、余計疲れることしてどうするんですか」
 背中だけを見せる彼女に、私はまた謝りたくなるのを堪えた。
「そうだね。土曜日にはお母さんが車を出してくれることになったよ」
「本当にすぐですね」
 手を拭いて戻ってきた彼女が、私の隣へと座った。足の指には、明るい金色がきらきらと光を跳ね返していた。
「その足の爪に塗ってるのは、どれくらいもつの?」
「けっこう保ちますよ」
 彼女が私の足の爪を見てから、私の顔をじっと見た。息が抜けるのと一緒に、私は笑った。
「私の足の爪、お願いしてもいい?」
 私の言葉に、彼女は目を大きく開いて固まった。そして一度バランスを崩しながらも、その傾きを利用して意地の悪そうな笑顔へと着地した。
「いいですよ。すっごく目立つのを塗ってあげます」
「お願いします」
 彼女は急いで道具を取ってきて、私に座る向きを変えさせた。伸ばした状態の私の足を、彼女は膝に置いたクッションの上へと持ち上げた。少し窮屈な体勢になってしまうが、彼女の真剣な顔をみながら私も耐えることにした。後ろにクッションを置いて肘をつき、ほとんど寝そべっているような姿勢で、彼女の俯いた顔を見ていた。瞬きを数回すると、しばらくは開いたまま、睫を微かに震わせて手元を見ている。
 彼女の選んだ色は、きれいな桜色だった。そこには緑や金色のラメが細かく入っていて、光の加減で複雑な色合いを見せる。彼女自身が手の指によく付けていた色だ。それをゆっくりと私の爪に乗せていく。呼吸が普段より深くなっているようだった。その集中を乱さないように、私はただ黙って自分の足の爪が彩られていくのを見ていた。
「はい、おわりです」
 そっと彼女が私の足を床に下ろした。五分ほどはこのままじっとしているように言うと、彼女は空気の入れ換えにと窓を開けた。その足でお茶を入れるといって台所へと向かった。
 ぺたぺたと足裏が遠ざかるのを見ながら、この光景は、もうすぐ失われるのだと、胸で呟いた。終わりを惜しむ資格が私にはないと思うのに、どうしてもこの手の感傷を感じてしまう。
「飲みます?」
 そう聞きながら、私の分のカップも用意している彼女を見て、私はうまく笑おうとした。
「うん、飲みたい」
 口にした言葉に引っ張られて、私は泣いていた。涙があまりにそっと流れるので、彼女には気付かれずに済むのではないかと思ったけれど、しっかりと私を見ていた彼女もまた涙を流していた。
 彼女は何も言わず、お茶を入れて戻ってきた。
「爪、やってみてどうでしたか」
 両手でカップを持った彼女は、お茶に息を吹きかけながら聞いた。
「思ったよりもくすぐったくなかったかな」
「よかったです。もっとはやく言ってくれてたら、似合う色を買いに行けたのに」
「十分だよ」
 私は涙を手の甲で拭い、カップへ手を伸ばした。夜のぬるい風が窓から入ってきて、室内に残る独特の臭いをまた少し拭っていった。
 二人で黙ってお茶を飲みながら、私は自分の足の爪を見ていた。

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