余情 46〈小説〉
あなたがこの詩集の作者のことを、話してくれたことはなかった。どうしてこの詩をあんなにも大切にしていたのかも、私は知らない。
知らなくてもいいと、思っていたのだ。あなたを、あなたという存在を知っていれば、その中身すべてなんて求める必要もなかった。私が知っていることだけで、十分にあなたは立体的だと思い込んでいた。
今更、知りたいと願ったところで、あなたはいないのだ。この詩のどの言葉に惹かれたのか。この作者の他の詩は読んだのか。どうやってこの本に出会って、そして、どうして私に残そうと思ってくれたのか。
私は知りたかった。あなたが私に向けてくれた言葉は、気持ちは、思いは、確かに私が受け取ってきたものと寸分違わず同じなのかを。
そんなはずは無いと、頭で分かっていても無駄だった。
知りたいと願った一歩は思ったよりも大きく踏み出していて、そしてそれは深く私のぬかるみを踏みしめていた。
数日、顔を合わせるのを避けていた私は、ついに今年最後の日に彼女に捕まった。
珍しく朝をいっしょにとることになった。トーストを焼いたあとのホットプレートで目玉焼きを焼きながら、彼女に聞いた。
「何かあるの?」
「お正月なので、お蕎麦とか、お餅の用意がしたいです。おせちを用意するのは無謀なので諦めて、それっぽいものを買って来ましょう」
「それっぽいものって?」
「それをいっしょに探すんですよ」
彼女の中に、プレゼントに対しての反応を探る様子がなかったことに、私は安堵していた。まだ私は、あの本を開くことが出来ていなかった。手に取ることも避けていた。本棚の一角に鮮やかに赤い背表紙は、どこに居ても目に入った。目がいつの間にかその色を映していることに、ひどく恥ずかしいような気持ちになった。言い訳のようにあなたの緑の本に目を向け、その凜とした色に心を落ち着けていたのだ。
「近くのスーパーは四日からしかお店が開かないので、日用品でストックがないものも買っておきたいですし」
「荷物持ちが必要なのね」
トーストを頬張り、紅茶で流し込みながら聞くと、彼女は焼けた目玉焼きをトーストの上にのせながら笑った。その通りだという口端に、私も大袈裟に、やれやれ、と目の表面に書き出した。
朝食が終わり、手分けして家の中の掃除を終わらせ、昼食の用意をはじめる前に買い物へ出ることになった。彼女はあのコートを、私は防寒を優先して買ったダウンのジャンパーを羽織った。去年買ったこれは、男性用の小さいサイズのもので、無骨な印象だけど、中にセーターを着ても余裕があるところが気に入っていた。買い物の量が多くなることを考えて、それぞれに持っているエコバックを全てバックに詰めた。
寒いと、小さな粒たちが動きを鈍くして、空気の中を埋めてしまう。それにぶつかって歩くことは、より深く体を冷やしていくことに感じられて、私は早々にポケットの中に手を突っ込んでいた。彼女は風が強く吹き付ける度に少し後ろへと押される。頑張って立ち向かっているのに、それでも一歩が制限されて、私から遅れてしまうのだった。それが嫌で、ムキになって私の隣を歩こうとする彼女の顔は、真っ赤になっていた。氷の海を割りながら進む、砕氷船の船首部のようなに鼻のあたまが真っ赤になっていた。その様子は、寒そうというよりも痛そうに見えた。
スーパーはいつもよりも混み合っていて、大晦日という日の特別さを、これだけ多くの人が感じていることが、なんだか不思議だった。この時期にだけ値段が上がるものは見ないで、私と彼女は人波の間をすり抜けながら、三日までの食料を篭に放り込んでいった。
彼女はちょくちょく実家に顔を出しているため、正月だからと帰る予定はないと言っていた。
日用品で足りなくなっていたものと、日持ちのする野菜、豆乳は二本買った。それだけでも十分に重たいのに、三日までの食料を買い込んだ私たちの両手には、ずっしりと手に食い込む重さがぶら下がることになった。
帰り道、こんなに重たいのなら豆乳は一本にしていたら良かったとか、お菓子はコンビニで買えるじゃないかとか言い合った。行きはあれほど感じた寒さが、文句を言いながらの帰り道に温まったのか、ちょうどいいくらいに感じた。
最後の難所であるアパートの階段は、二人とも無言で上った。
鍵を開けて部屋の中に入ると、風を防いでくれる壁の有り難さが身に染みた。二人で並んで手を洗いながら、ラストスパートとなる玄関口から冷蔵庫までをなんとか運び終えた。先に上着を脱ぎ、冷蔵庫にしまわなくてはいけないものと、外に置いておけるものを分けていった。きちんと折りたたんだエコバックを隅に置いて、私たちは自分達のお昼を用意して食べた。疲れ切っていたので、買ってきたカップ麺をさっそく二つ消費してしまった。彼女はそれでも足りないと、冷凍していたご飯を温めて、お汁といっしょに食べた。
「いいの?そんなに食べて?」
「一食くらい大丈夫です」
「今日の夜は遅くまで起きているから、夜食が必要になったりして」
私の言葉に、彼女の箸は止まり、じっと私をみた。怒るのかと思ったが、彼女が口にしたのは全く違う言葉だった。
「忘れていました。スペシャルなお菓子を買ってくれば良かったですね」
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