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1 bis 100 現在進行形至上主義が伝統を崩壊させる。旧東ドイツに見た伝統の守りかた

まるでそれは薄い紙を一枚ずつ毎日積み上げていくようなものだと感じる。

それを考えたときに私が好きな言葉を思い出す。

『一握りの砂、富士山を。一滴の雨、太平洋を』

小さな積み重ねが偉大な伝統を生み、また
小さな積み重ねがいつの間にか伝統を捻じ曲げたのだと思う。

はじめは賞味期限を少し長くしたい。だけだったかもしれない。

光で変色してしまう色を長持ちさせたい。だったかもしれない。

はたまた、味をより安定させたい。だけだったかもしれない。

本来である昔のものを数字で表して説明すると、始まりは1。

1と2でははっきりと違いがわからない。1と3でも分からない。10になったときには消費者の世代が変わり、10から始まった世代は10と11の区別がつかない。1で始まった世代は少しの違和感を覚える。

今の時代なら古い人間の戯言で老害などと言われていたかもしれない。

このようにして、多少の違和感は生まれるものの、世代が変わってしまえば『1である本来のもの』など知らない。もっと言えばその世代にとっての『本来』は10でしかなくなってしまう。


そのように考えれば現代の私たちの知っている『伝統』など『100』くらいは行っているだろう。

この1と100の差は相当なものである。善い行いであればプラスだが日々の積み重ねというものは本当に怖いものだ。努力の仕方に意味があるという事を、こんな加工品からも教えられる。

その場しのぎの“伝統を打ち破る”とか“革新”とか、時代のニーズに合わせたものを作っていかないと“振り向きもされない”状態になるという虚像なのか真実なのか分からぬ言葉の中で、クリエーターも苦悶しているのかもしれないのだが。


ただ有難いことに、ゴードンやフランツのように『本物の伝統を守りたい』という職人はいつの時代も一定数現われる。そのように小さなともしびを、全くつながりのない職人たちが、ドイツに限らず守ってきたと思えば熱い気持ちにならざる負えない。

ゴードンやフランツ、そして私はそもそも何も関りが無かった。ただそういったMentalität(メンタリテート、メンタリティ)が我々を後に結んでくれただけで、それぞれが個々にこの問題に取り組んできた。

そしてまた次世代の誰かがそれを聞いたり、見たりして、関心を持ったものが伝統を守り続けていくのだと思う。

1と100。

100で育った職人が1のものを作れと言われても、それは到底できないものなのだ。

それは私が日本に帰ってきて数々の失敗をしてその失敗から道理を知り、求めてきたので、この大変さは並ではない。その時に古い文献やレシピを見て試行錯誤していたのだが、載っているのは、とてつもなく簡素に省いて書かれた製造方法。そんな僅かな情報から当時の事を知ることはとても容易なことではない。現在ドイツの食肉学校で使われている教科書の何百ページの中身に、たった数行しか触れられていない。

色々なドイツの職人に聞いても『こんな風に作っていた』という曖昧な返答しか得られないのも彼らもどこかで微かに聞いたことがある、程度だからだろう。

昔の製造を見たこともない職人に勿論『本来の伝統』など作れるはずもなく、例えば試したとしても失敗し、昔は原始的で不衛生。だからこんな失敗か成功か賭けみたいなものしか作れなかったのだ。と結論し、現在進行形至上主義を用いて伝統は消え去っていくのである。

100で育った消費者に1の商品を紹介していく難しさもまた、昔の製造を読み解くよりも難しいことで、それは当たり前だが100が本物だと思っている消費者に1が本物だと言っても到底理解されない。

このように2重の苦しみを抱えながらの船出となるのである。

私がよく言っていること

『本物が偽物に。偽物が本物になる。』

なんと残酷な事だろうか。

理解のある僅かな消費者の言葉に有難さを感じ、ようやく自分の中のジレンマを消化できるといったところだろう。


百聞は一見に如かず

百見は一験に如かず

ただ本物を作りたい・守りたい・紹介したいという愚直な男たちの熱い想いが、よりたくさんの人々の中に入っていけたらと思う。



久しぶりにゴードンと会って、そんなことを強く感じていた。

朝食後、あくせく働くカトリンを脇目に、ゴードンはのんびりしている。

私が滞在しているという事で、きっとカトリンが気を利かせてゴードンを自由にしてくれたのだろう。ドライブがてらガソリンスタンドへ。

やたらと道路わきの緑の芝生が強く印象に残る。きらきらと黄緑色に輝いている、まるで誇張されたかのように。

対照的に全くと言っていいほど人の気配がない。車もまばらだが陰気な感じはなくむしろ雰囲気がすこぶる良い。ゴミひとつないんじゃないかと思わせる綺麗な道で如何にもドイツといった感じだが人気の無さは旧東ドイツというワードが似合う。

わりと大きなガソリンスタンドに着くと2、3台既に先客がいた。

ガソリンスタンドの売店は日本で言うとコンビニのような役割も果たしている。今では土曜日もお昼頃までオープンしているSupermarktスーパーマーケットもあるが時短営業や閉まっているため、何か足りなくなった週末に買い足せるように、わりと色々なものが販売されている。

私がバイエルン州で生活していたときのTankstelle(タンクシュテレ:ガソリンスタンド)と商品のラインナップは似たようなものだが、何か違和感を感じた。

ただその違和感が何であるは、全くわからずにいた。

ゴードンがtanken(タンケン:給油する)を終え売店に入ってくる。給油して売店のレジで支払いを済ませるスタイルだ。

辺りを物色している私にいつものニコニコ顔、というよりはニヤニヤ顔で近寄ってくる。おもむろに売店のコーラを持って

『飲む?知ってるこれ?』

もちろんコーラなんて知っているよ、と言おうと思ったとき、ゴードンの差し出したコーラを見てようやく違和感の意味が分かった。

旧西ドイツ出身のドイツ人は知らない。

旧東ドイツ産コーラ。『Vita Cola』(ヴィタ コーラ)

コカ・コーラを全く置かない。

置かなければいい。

これもひとつの伝統の守りかただろうか。

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