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昭和の『秋田魁新報』で振り返る「ごてんまり」



◯はじめに


ごてんまりは、秋田県由利本荘市を代表する民芸品の一つです。
市内にはごてんまり号というバスが走っており、一部のマンホールや街灯のデザインにごてんまりを見つけることができるなど、ごてんまりは広く市民に愛されています。
さきがけデータベースの「●タイトルと本文に含まれる文字列を検索」で「ごてんまり」と検索してみると、何と400件もヒットします。(注1)少し範囲を狭めて「本荘ごてんまり」で検索しても111件ヒットします。
同じ由利本荘市の民芸品「本荘こけし」は12件です。
この数字だけ見ても、いかにごてんまりが市民の間に知れ渡り、愛好されているかが分かるでしょう。
しかしごてんまりは、その知名度のわりに市民に理解されているとは言えません。
かつて本荘城というお城があったことから、ごてんまりは本荘城の御殿女中が遊戯用に作ったのが始まりだと、漠然とそう信じている人もいます。
わたしはごてんまりが市民に全然理解されていないことが残念でなりません。

そこで昭和に発行された『秋田魁新報』の記事をもとに、ごてんまりの歴史を振り返ってみたいと思います。
昭和は「ごてんまり」という言葉が初めて正式に使われた時代です。そして県を代表する産業として急速に発展・定着し、昭和50年ごろのオイルショックを機に廃れていきました。
このごてんまりの歴史を「昭和36年〜39年 ごてんまり黎明期」「昭和40年代 ごてんまり最盛期」「昭和50年〜60年代 ごてんまり衰退期」と三つに分け、「市民にとってごてんまりとはどんな存在だったのか」という視点で、時系列順に振り返ります。
この時代の分け方はわたしの個人的な分類法であり、ごてんまりの歴史を考える上で通常用いられているものではないことをご注意下さい。

当時の新聞を振り返ることで、懐かしく感じる人もいるでしょうし、新鮮に感じる人もいると思います。
こちらを読んで、少しでもごてんまりに対する理解を深めていただけたら嬉しく思います。

◯言葉の説明

ここで言葉の説明をさせていただきます。
全国各地に「御殿まり」はありますが、わたしが使う「ごてんまり」とは、昭和36年以後に由利本荘市(合併前は本荘市)で作られたまりのことを意味します。
「ごてんまり」は「手まり」を意味する「てんまり」に丁寧語の「ご」がくっついてうまれた言葉だという説が有力(注2)で、「御殿」つまりお城とは無関係です。
ごてんまりという言葉が本荘市で正式に使われたのは昭和36年の秋田国体のときが初です。(注3)
次に「本荘ごてんまり」とは、三方に房のついたまりのことです。

本荘ごてんまり

この三方に房のついたデザインは、本荘ごてんまりだけに見られる唯一無二のものです。昭和39年頃に斎藤ユキノさんによって考案されたと言われています。(注4)
斎藤さんは以前、田村正子という名前で、田村スエノと名乗っていた時期もあります。記事の中に「田村政子」という名前で出てくることもあるのでご注意ください。
また、発行年月日のみが記載された文献は全て『秋田魁新報』の記事です。

以上のことを念頭に読み進めていただけたらと思います。

◯昭和36年〜39年 ごてんまり黎明期

『秋田魁新報』に初めてごてんまりの話題が登場するのは昭和37年5月23日「望まれる保護育成 製作者県内でたった二人」という記事です。

国体で好評を呼ぶ
この御殿マリも安くてよく飛ぶゴムマリの普及は、昭和にはいってから追放され、童謡に残るだけとなり、実物はついにすっかり忘れさられてしまった。
ところが本荘市では、昨年の秋田国体に土地がらを現しているこの昔ながらの御殿マリを選手たちに贈呈することになった。市では早速豊島さんに交渉したら、スエノさんは、"わたしはもう老人になったから、御殿マリが姿を消さないうちに"と娘のトミエさんに手を取って製作の方法を伝授した。
(中略)
しかし好事家の間では評判を呼び、各地から問い合わせが本荘市役所に舞い込んでいるが、なにしろ製作者はわずかに二人だけ、それも家事の合間に作るとあって、保護育成が各方面から望まれている。

昭和37年5月23日「望まれる保護育成 製作者県内でたった二人」

ごてんまりが昭和36年の国体でお土産として選手に配られ、そのことがきっかけで全国的に有名になったのは本当ですが、「製作者県内でたった二人」という部分は誤りです。
国体のごてんまり製作には、この二人以外にも製作者として関わった人たちがいました。
同年7月27日の『市政だより』にも同じような内容の記事が出たことから、事実が伝えられていないことに憤った製作者の二人が、当時の市長宛てに連名で抗議文を提出しています。(注5)
この時期、ごてんまりは確かに話題にはなっていましたが、多くの市民にとっては他人事でした。
製作者も一人二人しかいないというわけではありませんでしたが、それでも限られたごく少数の人たちが作るものでした。

昭和37年頃には本荘市内に同好会が作られるようになり(注6)、少しずつ製作の輪は広がっていきます。
この頃の記事を読むと、まだ産業として成り立ってはいないこのごてんまりを、何とかして育てようとする動きが徐々に盛り上がっていることが伝わってきます。


ごてんまりは元来ゼンマイのシン(芯)に綿糸で丸みをつけ、毛糸をかけてつくられていたが、最近はモミガラをナイロン袋につめ、これを綿糸とリリアンで模様づけしているが、その味には変わりはないとされている。
新しい製造方法で売り込んだ"民芸品"もその後、製作に手間がかかることや利益が少ないこと、販路が確立されていないことーなどもあって、いまではごてんまり同好会(同市後町、田村正子さんら七人)ほか数カ所でつくられるだけになっている。
これらのグループは伝統の保存という理由からでなく、趣味と実益をかねて"内職"にやっているもの。大(千円)中(二百七十円)か小(百五十円)の三種類をつくっているが、せいぜい一日二個が限度で、内職としてもたいした利益はないという。
しかし、今夏東京晴海の国際見本市に出品したところ大きな反響を呼び、ママ・ストア(瓦谷静子社長)を通じて輸出の話が持ち込まれた。
結局、量産はダメとあってこの話は見送ったが、市当局の観光協会では、この伝統ある民芸品を育てあげ、本荘名物の一つにしようと助成に力を入れることになった。

昭和38年10月8日「郷土の民芸品守ろう」

昭和39年2月10日「本荘の"ごてんまり"  海外からも注文殺到」という記事には、「"ごてんまり"を作っている人は、本荘市内に二十数人いる」と書かれています。
国体開催時には数人しかいなかった製作者が二十数人へ。
ごてんまりは主に本荘市内の主婦の内職として広まり、製作者の数は着実に増えていきました。
そして昭和39年3月には、ついに本荘に内職工芸組合が誕生します。

本荘にこのほど内職工芸組合(組合長=保科市商工課長)が結成された。市内の主婦たちの内職グループが集まって、家庭での内職を一つの企業として発展させようという試みで、今後の市場開拓が期待されている。
この内職工芸組合は、これまでは市内各地で同好会やグループに分かれて民芸品やおみやげ品を作っていたのを一つにまとめたもの。組織化した企業団体として販路の開拓や技術の向上を図ろうというもので、当面は今秋の東京オリンピックをめざし量産を進めることにしている。

昭和39年3月5日「本荘に内職工芸組合が誕生」「主婦たちの企業団体 製品は"ごてんまり"など」


記事には「このほど市商工会、観光協会の世話で、ごてんまり製作の小松コノエさん、田村政子さん、石塚ヤエ子さん、おばこ人形の小松コノエさん、ビーズししゅうの大場ミヨさんら十数のグループや同好会の会員約百人が組合員になった。」とあります。
いろいろなグループの集合とはいえ、百人とはなかなかの人数ですね。

こうなってくるとただの趣味グループではなく、地域に新しい企業が誕生したという印象です。
「当面は今秋の東京オリンピックをめざし量産を進めることにしている。」「今後は百五十円前後から千円台まで各種の製品を作り、中央市場に出すことにしている。」という言葉からも分かるように、最初から県外への輸出を念頭に組織されていたようです。
この時期からごてんまりは、単なる「個人の趣味」というよりかは、県外から外貨を稼ぐ重要な県産業の一つとして認識されるようになったのではないかと思います。

◯昭和40年代 ごてんまり最盛期

ごてんまりは昭和40年代に最盛期を迎えます。
ごてんまり作りは趣味と実益を兼ねた内職として本荘市内の主婦を中心に広まりましたが、本荘市以外の地域でも作られました。
昭和40年に仙北地方で農協婦人部員の女性たちが講師を呼んでごてんまりを作り、作ったごてんまりを出かせぎ者に送ったという記事があります。

仙北地方の冬季出かせぎ者は八千人におよび、三戸に一人の割り合いとなっているが、これにともなって、"出かせぎの悲劇"もふえ、仙北福祉事務所の調査では出かせぎに行ったきりの"帰らざる夫"は昨年の場合、六十人を越したといわれる。
仙北郡南楢岡農協(農家数三百六十戸)でもこの冬二百人の世帯主たちが関東地方に出かせぎにいっているが、南楢岡農協婦人部(部長森田良枝さん(四四))や営農指導員の伊藤重雄さん(三三)らの呼びかけで「みんなで家庭を守ろう」を合いことばに"家庭的な幸福のシンボル"ごてんまりをみんなでつくって送ることにした。

昭和40年2月27日「家庭のかおり ごてんまりにこめて」

仙北地方で作られたごてんまりは、商用ではなく出かせぎに行く家族や地域住民に向けたプレゼントでした。
手作りのごてんまりは、県外へ出かせぎに行く世帯主へ家庭を思い起こさせ、冬が終わった後に「家に帰る」選択をさせることを期待して送られました。

昭和45年には全国で初めての「全国ごてんまりコンクール」が米まつり協賛行事として開催されます。
出品数は480点を数えました。
この時期いかにごてんまりが盛り上がっていたか、製作者の人数や収入の数字に注目しながらご紹介します。

手作りで毎月六千個ほど
この町の主婦たちの間で、盛んに作られるようになって十二年ほどになる。現在、市には三つのグループがあり、会員はいずれも八十人から九十人。一グループで月に、大小ニ千個平均が作られている。農家の主婦、勤め人の主婦、隠居したおばあさんなど、四十代以上の女手で、地道に守り継がれている。作り方は至って簡単。見よう見まねで十個も試作すると、あとは立派な'商品"になるという。手のおそい人で月に七千円、ベテランだと一万四、五千円の手間賃になる。趣味と実益を兼ねた格好の手芸。
色調を考え、模様をねり、でき栄えに満足しながら小遣いにはなる。中にはコツコツと貯えて四十万円とする仏壇を買ったおばあさん、北海道や九州に旅行した主婦。そして、ほとんどは自分の書物や孫への贈り物に当てているという人たちである。出荷先は県内を始め、東京、北海道、京都、山形と広い。

昭和45年11月29日「主婦たちの格好の内職」「趣味と実益を兼ね月に一万円ていどの収入」

「月に一万円ていどの収入」とは、現在の価値に換算するとどのくらいの意味を持つのでしょうか。
当時を知る70代の女性に聞いたところ、「内職で月に一万円といえば大したものだ」と言います。
その人が言うには、当時高卒の初任給が2万5、6千円程度だったそうです。昭和45年当時の一万円は、今で言うと9万円くらいの価値になるのではないかと思います。
手のおそい人でも月に7万円程度、ベテランだと月に14、5万円の収入になるというのですから、主婦の間でごてんまり作りが大流行したのも納得です。
昭和45年9月25日の『本荘時報』では、ごてんまり製作者は本荘市内の内職者全体の六十七、五%を占めるという数字を報道しています。
内職を今後も続けるかどうかでは、続けるが断然多くて九十五パーセント。すさまじい人気ぶりが伺えます。

昭和39年の報道では、市内にごてんまりを作っている人は二十数人という数字でした。
それが昭和45年には「三つのグループがあり、会員はいずれも八十人から九十人。」ということなので、240〜270人もいた計算になります。
たった数年の間にごてんまりを作る人の数は、一つのクラスから一つの学校を形成できるくらいの規模に急拡大しました。

昭和49年2月14日「伝統企業 きょうとあす」という記事は、「現在ご殿まりをつくっているのは約三百人」「年間八千万円の売り上げ」と伝えています。
全てが順風満帆のように見えますが、「後継者問題」「他県の製品との競争」など課題が多いとも書いています。


後継者不足に悩む
ようやく軌道に乗ってきたご殿まりだが、他の産業同様、後継者不足が大きな問題となっている。一人前になるのは最低三年はかかること、材料が自分持ちであるため一日の手間賃が四、五百円程度にしかならないことなどが重なり、最近はまりづくりをやめて、市内の誘致企業へパートタイマーで働きに行く主婦たちがふえた。
若い人たちがどんどん後から続いてくれなければ、先細りは明らかで、現在ではさばききれないほど注文が舞い込んでいるだけに悩みは大きい。
さらに最近、新たな問題が起きてきた。競争相手が現れたことだ。本荘のほかにも隣の山形県をはじめ、和歌山県、沖縄県など五、六県でも民芸品として売り出し中。
毎年本荘市で開かれる全国ご殿まりコンクールでは、いつも好成績を収めているものの、技術の差は年々縮まる一方。日本一と安閑としていられない時期にさしかかってきたといえる。

昭和49年2月14日「伝統企業 きょうとあす」

この時期「全国一美しい」(昭和45年11月29日)や「ご殿まりーというとすぐ本荘を連想するほど本荘のご殿まりが有名になった」(昭和48年6月16日「秋田ミニ百科212」)など、本荘のごてんまりを日本一だと誇る言葉が目立つようになります。
この時期の新聞を見ると、写真のまりにはほとんど三方に房がついており、「本荘のごてんまり=本荘ごてんまり」という感覚だったと思われます。
本荘のごてんまりがあまりに盛り上がっていたために、他県でも同じように民芸品としてまりを売り出すところが出てきて、いつまでも日本一と安閑としていられなくなってきたという状況だったようです。
また40年代の終わりから内職に代わってパートが台頭し、ごてんまり作りが必ずしも内職者にとってうまみのある仕事ではなくなってきたらしいことが分かります。

◯昭和50〜60年代 ごてんまり衰退期


昭和50年代の記事は、前半と後半で記事のトーンがかなり異なります。
昭和51年6月7日「高齢者資金でイキイキ」という記事には、県内老人クラブで行われている生産活動が紹介されています。
県が老人クラブの生産活動に資金を貸し付け、各クラブはそれを基に栽培や飼育、養殖、製作などを行なっているがいずれも順調で、中でもごてんまりはすでにプロ級だという内容です。

この中で、大潟村の青風会第一、第ニ老人クラブは、楽焼とご殿まりを製作しているが、第二クラブのご殿まりはすでに"プロ"の腕前といい、昨年は約七百万円の売り上げがあったという。
(中略)
どのクラブも楽しみながら"マイペース"で作業を進めているが、三年間で生産ペースも安定し、一年据え置き、四年間で五万円ずつ返済する貸付金を軽く突破する収益を上げているクラブが多いといい、中止したクラブもない。収益はレクリエーションや慰安旅行などに回し、生きがいをねらいとする生産活動はそれなりの成果を上げている。

昭和51年6月7日「高齢者資金でイキイキ」

昭和50年始め頃までは、市民にとってごてんまりはただの趣味でなく、現金収入が得られるはっきりと実益のあるものでした。
しかし昭和51年のこの記事を最後に、ごてんまりの金額や収入に関する記述はぱたっと見られなくなります。
代わりに登場するのが「お願い安全運転を」(昭和53年12月10日)、「安全運動祈ってプレゼント」(昭和54年12月20日)など、地域の交通安全を願ってごてんまりがプレゼントされたという記事です。
ごてんまりは商用でも家族へのプレゼントでもなく、「市の安全」というシンボル的な意味合いで使われるようになりました。

昭和55年5月4日「民芸新鋭 幾何学模様に魅力」という記事には、本荘市内でごてんまり作りをするグループの1人が紹介されています。
ごてんまりについて「市内の主婦たちの貴重な収入減だ。」という記述は見られるものの、ごてんまりの金額や収入に関する記述は、やはりどこにもありません。
お金に関する記述がなくなったことと並行して、「ごてんまりの伝統を守」るや「ごてんまりには古い日本のよさが残ってい」るといった、これまでに見られなかった新しい表現が使われていることを指摘しておく必要があります。

主人の貞男さん(四五)=農機具店勤務=は、あき子さんにとってデザインに関する貴重なアドバイザーだし、家族ぐるみでごてんまりの伝統を守っている。
あき子さんの作品のいくつかは、遠い海を渡ってブラジルの日系人の手元にある。「ごてんまりには古い日本のよさが残っています。体の丈夫なうちはまり作りを続けたい」と話す。

昭和55年5月4日「民芸新鋭 幾何学模様に魅力」

それまでごてんまりは、決して「伝統を守る」ために作られてきたわけではありませんでした。
本荘市内の主婦を中心とした製作者たちは「伝統の保存という理由からではなく、趣味と実益をかねて"内職"にやっている」(昭和38年10月8日)のでした。だからこそ本荘に内職工芸組合が作られ、県内を始め、東京、北海道、京都、山形と広く出荷されてきたのです。
本荘市以外で作られたごてんまりも同じです。
仙北地方では出かせぎ者へプレゼントするために、大潟村の老人クラブでは老後の生きがいのために作られました。
いずれも「伝統を守る」という目的はありませんでした。

おそらくこの記述の変化には、昭和48年(1973年)に端を発したオイルショックが関わっていると思われます。(第一次 昭和48年〜52年、第二次 昭和54〜58年)
『本荘ごてんまりと全国ごてんまりコンクールの歩み』本荘郷土資料館 2007年によると、「昭和50年のオイルショックを経て、その後の弱電メーカーの内職、パート労働者の増加などにより、ごてんまりの内職者は激減し」たそうです。

昭和49年には消費者物価の上昇率が年に20%を超えるという激しいインフレが起きました。
当時の新聞を読むと、昭和35年から40年代までは内職が非常に活発な印象を受けるのですが、昭和50年以降になると「求人増えたが工賃の安さ致命的に」(昭和51年2月3日)、「インチキ内職が横行」(昭和58年5月23日)など、内職を希望する人にとっては厳しい内容が目立つようになります。
「最近はまりづくりをやめて、市内の誘致企業へパートタイマーで働きに行く主婦たちがふえた。」(昭和49年2月14日「伝統企業 きょうとあす」)とあるように、オイルショックによりごてんまり作りは、収入面で魅力的な仕事ではなくなりました。
収入の面で言えば、パートに出る方がずっとよいのです。

つまりオイルショック以後にごてんまり作りを続ける場合には、収入以外の動機が必要になったと考えられます。それが「伝統を守る」という表現なのではないでしょうか。
オイルショックによるインフレやパート労働の台頭で、相対的にごてんまり作りで得られる実益が薄れてきたために、昭和50年代の半ばに「伝統を守る」という新しい行動理由が誕生したのだと思います。

昭和61年10月28日「がんばってます女性最前線」という記事には、次のように書いてあります。

作っているのは本荘市内や近郊の農家の主婦たち「白樺会」のメンバーで、もう一つのグループ「あやめ会」とともに、市場に出回るすべての昨日を請け負っている。会の結成は昭和四十年。以来、コツコツと手作業を続け、いまでは県を代表する民芸品に成長した。
(中略)
白樺会は、月平均五百個を民芸品店に納めているが、半分以上が他県からの注文で占められている。斉藤勝子会長(四四)は「最盛期は二百人もいた会員が、いまでは八十人まで減った。ようやく知名度が上がったのにこのままではー」と顔を曇らす。それでも会員たちは、来月一日から始まる「全国ごてんまりコンクール」へ向け、夜がふけるのも忘れ製作に没頭している。

昭和61年10月28日「がんばってます女性最前線」


製作者にとっては収入面の魅力が減退したためなに「最盛期は二百人もいた会員が、いまでは八十人まで減っ」てしまいましたが、ごてんまりの需要は変わらず続いているようです。
「月平均五百個を民芸品店に納めているが、半分以上が他県からの注文で占められている。」という部分は、最盛期ほどではないにしろ、ごてんまりが市場で根強く求められていることの証です。
それにごてんまりから「作る喜び」自体がなくなったわけではありません。
この記事でも触れられているように、現在でも行われている全国ごてんまりコンクールは、製作者の大きなモチベーションになっています。

◯まとめ

以上、ごてんまりの歴史を「昭和36年〜39年 ごてんまり黎明期」「昭和40年代 ごてんまり最盛期」「昭和50年〜60年代 ごてんまり衰退期」と三つに分け、「市民にとってごてんまりとはどんな存在だったのか」という視点で振り返ってきました。
「ごてんまり」という言葉が初めて使われた昭和36年のときは、それが市民にとってどんな意味を持つことになるのか、誰にも予想ができませんでした。
昭和36年の国体を機に爆発的な人気となり、ごてんまりは全国各地から注文が舞い込むことになります。
昭和40年代までは、ごてんまり作りは本荘市内の主婦を中心に内職として広がり、一時は300人にまで増えるなど、順調に拡大を続けました。
ごてんまりは県を代表する産業になり、全国的な知名度を獲得していきます。
ごてんまりは市民にとって、豊かな生活をもたらしてくれる希望の星でした。
しかし昭和50年頃のオイルショックを経て内職者は激減します。
その頃からごてんまりはパート労働に比べて収入面で魅力が劣り、収入目的というよりかは「伝統を守る」ために作られたり、「地域のシンボル」として使われたりするようになります。
オイルショック以後、ごてんまりは希望の星から守らなくてはならない市のシンボルへと、変貌したように思います。

昭和の『秋田魁新報』を読んで驚いたのは、少なくともごてんまりの需要が減退した様子が全く見られないことです。
製作者が市内に数人しかいない時も、300人いた時でも、同様に「各地から問い合わせが舞い込んでいる」「さばききれないほど注文が舞い込んでいる」といった記述が見られます。
昭和の終わり頃になっても、とあるグループが「月平均五百個を民芸品店に納めてい」て、しかもそれが「半分以上が他県からの注文で占められている」というのだから驚きます。
これほどまでに広く市民に知られ、長く求め続けられている民芸品も珍しいのではないかと思います。


(注1)令和5年12月23日に秋田県立図書館で筆者が検索した際の件数。
(注2)木村与之助「ごてんまり物語」『鶴舞』第11号 本荘市文化財保護協会 昭和37年10月1日
(注3)木村与之助「ごてんまり物語」
(注4)石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第四号 2011年 本荘由利地域史研究会 p.55
(注5)高野喜代一『評論 青銅刀子』高野写真印刷 2003年 p.73、石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」p.31-35
(注6)昭和37年8月19日『本荘時報』

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