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どうしてこんなことになった!?KOUGEI EXPO in AKITAの本荘ごてんまり

今月の18日から20日まで、KOUGEI EXPO in AKITA (第39回伝統的工芸品月間国民会議全国大会)が秋田市で開かれました。
わたしも見物しに行ったのですが、そこで唖然とする出来事がありました。

文化創造館2階の、階段を上がってすぐのところでした。
デパートで言えばエスカレーターを上がって正面という、もっともお客さんが注目してくださる一等よい場所です。
まるで階段から上がってくる来場者を歓迎するかのように、〈花火〉と〈菊〉の本荘ごてんまりが壁に吊されていました。
たくさんの人が足を留めてその美しさを褒め称えたり、写真を撮ったりして下さったのは大変嬉しかったです。
しかしその横に掲示された本荘ごてんまりに関する説明を読んで、びっくり仰天しました。


最初の三行と「技術・職人の技」の部分は異論ありません。
問題は「歴史・特徴」の部分です。

歴史・特徴
ごてんまりに関する記録は、貞応2年(1223年)の手鞠会についての記述が見つかっています。
ごてんまりが地域に伝わった経緯については、御殿女中が姫君のために作った遊び道具が世間一般に伝わったなど諸説ありますが、江戸時代後期から旧本荘市の石沢鮎瀬地域に伝わる「かけまり」の技法がベースになっているといわれています。

貞応2年(1223年)の手鞠会についての記述

最初の「ごてんまりに関する記録は、貞応2年(1223年)の手鞠会についての記述が見つかっています。」という文章は明らかに間違いです。
貞応2年(1223年)の手鞠会についての記述というのは、おそらく『吾妻鏡』のことでしょう。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の事績を編年体で記した歴史書で、治承4年(1180年 )から文永3年(1266年 )までの記録が書かれています。
貞応2年(1223年)4月の13日と28日に手鞠会の記述があります。

十三日、乙酉。若君(三寅、のちの頼経)が南庭にお出ましになり、手鞠の御会があった。また駿河三郎(三浦)光村・筑後九郎(八田)知氏・伊賀左衛門太郎宗義・佐々木八郎信朝が競馬を行った。その後、それぞれがまた相撲の勝負を行ったという。島津三郎兵衛忠義が担当した。

『現代語訳 吾妻鏡9 執権政治』2010年 吉川弘文館 p.16

二十八日、庚子。若君(三寅、のちの頼経)が西御壺にお出ましになり、いつもの手鞠の会が行われた。この間に鳥の糞を懸けられ、急いで審議があり、占い申した。御病気(の予兆)という。

『現代語訳 吾妻鏡9 執権政治』2010年 吉川弘文館 p.16


「手鞠の会」という言葉は出てきますが、「ごてんまり」という言葉はどこにもありません。
つまり先ほどあげた文章が「ごてんまり」でなく、「手鞠」(もしくは「手まり」)という言葉であれば正解です。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の事績を記したものであって、当然秋田県内の文化や風俗について書いているはずがありませんから、『吾妻鏡』を用いて由利本荘市で作られている「ごてんまり」を説明しようとするのは、土台無理があります。
もしこの本荘ごてんまりの説明に、『吾妻鏡』以外の資料を参照しているんだとしたら、ぜひ教えていただきたいです。
KOUGEI EXPO in AKITA 来場者の中には、「本荘ごてんまりって、約800年前からあったんだ! すごい!!」と思ってしまった方がいるかもしれませんが、残念ながら違います。

昭和29年6月から昭和39年4月1日まで本荘市役所に勤め、市の広報紙『市政だより』を担当した木村与之助によると、旧本荘市(合併して現在は由利本荘市)で「ごてんまり」という言葉が最初に使われたのは、昭和36年の国体のときだそうです。(注1)
木村は本荘市文化財保護協会の理事でもありました。 
長年市史の編纂に携わった今野喜次も、「ごてんまり」に関する資料は、「江戸時代はもとより、明治・大正・戦前の数万点を越える市史資料にも出てこない」(注2)と述べています。
故に由利本荘市で「ごてんまり」と言えば、それは昭和36年以後のことであり、それより前にごてんまりがあったとする説は、ほぼ眉唾物だと思って間違いないでしょう。

御殿女中説

次に、「ごてんまりが地域に伝わった経緯については、御殿女中が姫君のために作った遊び道具が世間一般に伝わったなど諸説あります」という部分についても、わたしは大いに異論があります。
と言うのも、最近市のごてんまりに関する説明は、2011年発表のとある論考と、それを紹介した秋田魁新報の記事によって劇的に変化しているからです。
詳しくはこちらの記事を参照下さい。

ごてんまりの歴史が変わってきた|ゆりてまり|note

この論考により、「『満茂説』(=本荘の”ごてんまり”は、江戸時代初期の慶長十八年に楯岡満茂が本荘城へ移った際に、城の御殿女中達が遊戯用の手まりとして作ったのが始まりだとする説)は、童謡『鞠と殿様』による先入観から生まれ、本荘市が歴史的裏付けをしないままに、取材不足のマスコミが勝手に物語を作り、それを転載することによって広がった全くの虚構」と結論づけられました。
それによって市の説明も劇的に変化したところだというのに、まだ「諸説あります」という理由で御殿女中説を続けようとするとは!
Q.E.Dは既に終了したのに、まだそれ続けるんですか?と、うんざりしてしまいます。
百歩譲って、これから未来、御殿女中説を裏付けるような新資料が出てきて、由利本荘市にとって御殿女中説が本当の歴史になることがあるかもしれません。
しかしそれを書くのは、新資料が発見されてからでいいのではないでしょうか?
それよりも、本荘ごてんまりは50年以上も虚構の歴史で語られ続け、偽史が広まってしまっていることに留意して、少しでも事実に即した情報を伝えられるよう尽力すべきではないでしょうか。

せめて嘘はやめて欲しい

KOUGEI EXPO in AKITAで掲示された本荘ごてんまりの説明は、どうしてこんなことになったのでしょう。
思い込みが激しく、根拠が曖昧な情報ばかりで、本荘ごてんまりについて詳しい人が書いたとはとても思えない、「説明」というより「作文」といったほうがいいような内容です。
これは一体どなたが書いた文章なんでしょうか?
言葉としては昭和が初出の「ごてんまり」を、12世紀末から13世紀に書かれた『吾妻鏡』をもとに説明しようとするなんて、歴史感覚が数百年レベルでズレています。
恥ずかしいやら情けないやらで、わたしは会場で顔から火が出そうでした。

「#本荘ごてんまり」で検索すると、既にこの説明が本荘ごてんまりの画像とともにネットに流出してしまっていることが分かります。
なかにはこの説明の写真とともに「本荘ごてんまりに携わる者として誇らしい気持ちになりました」とSNSに書いている人もいて、なんともやりきれない気持ちになりました。

誰にでもミスはあって仕方のないものですが、あまりに何度も嘘の情報を発信していると、当然信用されなくなります。
2007年の秋田わか杉国体では、全くの虚構である満茂説を書いたごてんまりストラップを来場者に販売・配布し、根拠のない歴史観を広めてしまいました。
わたしが「ごてんまりの”分かる”と”できる”を届けたい」をモットーに活動しているのは、二度とこういったことが起きて欲しくなかったからでもあります。
本荘ごてんまりを「地域の宝」だというなら、せめて嘘はやめて欲しいと思います。
歴史を学んで、きちんとした情報を発信できるようになって欲しい。
そうでなければ、由利本荘市という地域自体の信用を落としてしまいます。



(注1)木村与之助「ごてんまり物語」『鶴舞』第11号 本荘市文化財保護協会 昭和37年10月1日 p.31
(注2)今野喜次「本荘八幡神社祭典と傘鉾―傘鉾の復活を願って-」『由理』第三号 2010年 本荘由利地域史研究会 p.37


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