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今昔コロツケー奇譚 〈3998字〉第18回坊っちゃん文学賞撃沈作品③

表通りから離れた狭い路地の奥に、その小さな店はあった。
外の看板にはひとまずバーと謳ってあるが、入ってみれば壁中所狭しと品書きが貼ってある店内は、むしろ寿司屋のカウンターに近い。
ポテト・かぼちゃ・クリーム・さつまいも・カレーポテト・餅・チキンライス……

「ねえマスター。俺さ、この店通うようになってから、何だか元気になったみたいだ」
「ほう、そうですか」

客は若い男が一人いるだけだった。中年のマスターが手を動かしながら相槌を打つ。

「その頃ってか今もだけど、会社の上司がいわゆるパワハラ野郎で、俺ほんと病みそうだったんだけどさ」
「そういうのはどこにでもいますね。困ったものです」

店主が眉間に皺を寄せると、若い男は笑って首を振った。

「でもここでマスターのコロッケを食べると、不思議に元気が出るんだ。もう避難所みたいなものさ。最初に食べた時の美味さは衝撃的だったな。偶然路地に迷い込んだおかげでこの店見つけてラッキーだったよ。だけどコロッケバーって珍しいね。それに店の名前も妙にレトロだし」

表のささやかな灯りに照らされた小さな木板には『BAR・コロツケー』と書いてある。
店主は笑って頷いた。
「よく聞かれます。店の経緯も名前の由来もね。まあなかなか信じてはもらえないのですが」
そう言うと、店主はゆっくり話し出した。

「僕が小学生の時の話です。その頃まだ土曜日は午前中だけ授業がありました。僕の家は母子家庭で母は土曜日も働いてましたから、昼に授業が終わって家に帰っても誰もいません。まあそれは仕方ないのですが、僕はその頃学校でいじめに遭ってまして、そいつらが家まで押しかけて来るんですよ。一応遊ぶっていう建前ですが、ぶっちゃけ先生の目の届かない所で好きなだけいたぶろうって腹です」

「うわ、マジで最低……」

「それである日家から脱け出してぼんやり歩いていたら、何度か見かけたことのあるおばあさんに『どうした』って声をかけられたんです。僕の表情や様子から何か察したのかな。僕が答えに困ってたら、唐突に『うちに来んか』って言われてね。迷いはしたけど、まあ今みたいに不審者情報が溢れ返るような時代じゃなかったし、他所の家に入り込んでればあいつらに見つからないかな、という思惑もありました」

それのどこがコロッケバーに繋がるのか、若い男は訳も判らないまま頷いた。

「連れて行かれたのは、少し離れたところの小さくて古びた一軒家でした。何だかほんとに田舎のおばあちゃんの家に来たみたいでね。だから『学校は楽しいか』と聞かれて、つい『実はクラスでいじめられてる』って言っちゃったんです。そいつらが家まで来るから逃げてきたんだと。でもそれを聞いたおばあさんは、顔色ひとつ変えず僕にこう言いました。『そんならコロツケー、食べるか』」

若い男がぽかんと口を開けたのを、マスターはおかしそうに眺めた。

「ね、変でしょう?いじめとコロッケに何の関係があるのか。しかもコロッケじゃなくて、コロツケーです。僕が黙ってたら『嫌いか、コロツケー』って言うから、仕方なく僕も『コロツケーってコロッケのこと?それなら好きです』と答えました。そしたらどうしたと思います?いきなりじゃがいも洗い始めたんですよ。要するにイチから作り始めた訳です。そりゃびっくりしました」

若い男も驚いた。てっきり冷凍食品か何かだと思ったのだ。

「でもその時食べたコロッケは、冗談みたいに美味かったです。こんがりしたキツネ色のパン粉がしゅうしゅうと音を立てて、箸が入らないぐらい衣がカリッとしてね。そいつをざっくり割って口に運ぶと、じゃがいもと挽き肉の旨味が口の中いっぱいに溢れて……すごく熱いから、うっかり丸ごと口に入れようものなら大惨事ですけどね。『美味いか』って聞かれても口をはふはふさせるばかりで、とても言葉が出なくて。そうしたら初めておばあさんが笑ったんです」

それは若い男にもよく判った。ここで出されるコロッケも、いつも舌を火傷するかと思うぐらい熱々だからだ。

「それから僕は毎週土曜日、おばあさんの家でコロッケを食べるようになりました。ポテトコロッケに始まり、クリーム、かぼちゃ、さつまいも、カレー味のポテト、秋には栗なんかもあってね。変わり種では餅やチキンライスのコロッケとか。そう、この店のメニューはそこから来ているんですよ」

「どうしてコロッケばかりだったの?」

若い男は不思議に思って尋ねた。子供を喜ばせたければ、コロッケだけじゃなくてもっといろいろな料理を作りそうなものだ。
店主はさあて、というように首を傾げた。

「そいつは僕にも判りません。ただおばあさんは相当の高齢でしたが、コロッケを作る手際の良さはもう芸術的と言ってもいいぐらいでした。あるいは元々その道の人だったのかもしれません。そのくせ発音はコロツケーですからね。『どうしてコロツケーって言うの?』って聞いてみても、おばあさんは『なんか変か』って言うだけでした。まあお年寄りのカタカナの発音って、ちょっと変わってることも多いですから」

男はなるほどと頷いた。

「でもある時いじめっ子のボスが急に転校してね。そうしたら嘘みたいにいじめはなくなりました。それでようやく学校でも家でも、普通に友達と遊べるようになったんです。そうなると子供なんて薄情なもんで、僕はだんだんおばあさんの家から足が遠のき、やがてすっかり忘れてしまいました」

「ああ……でも子供ってそういうものだから……」

店主はバツが悪そうに、そうですねと頭を掻いた。

「それで社会人になってから、思い切って会いに行ってみたんです。せめて一言お礼が言いたくて。でも結局、その家は見つかりませんでした。ここだと思われる場所はただの空き地でね。もしかしたらもう亡くなってしまって家も取り壊されたのかもしれないと思って、近所の人に聞いてみたんです。ところが母を含め、誰一人としておばあさんのことを知っている人はいませんでした」

「誰も知らない?」

店主は頷いた。

「あれは夢でも何でもない、現実にあったことです。ただ思い返せば不思議なことはありましたが。まずおばあさんは『誰にも言うでない』と、何故かいつも僕に口止めをしました。それからもう一つ。家に行く時は勿論、道で偶然おばあさんに会うとしても、それは決まって僕が一人の時なのです。近くに誰かがいる時に会うことは一度もありませんでした」

若い男は言葉を失った。それはいわゆるその手の話なのだろうか。
店主は穏やかな口調で続けた。

「近所の人によると、その場所は昔、古い地蔵堂があったけど何かの事情で撤去されて、以後はずっと空き地だったそうです。当然僕としては信じられなくてね。もしやお地蔵様が僕を助けるために現れたのか、なんて思ったものです。馬鹿げた考えかもしれませんが、家にも学校にも居場所のなかった僕にとって、おばあさんの家が貴重な避難場所になったことは確かです。そういう場所があるかどうかは、子供の場合、時に死活問題となりますから。僕は幸運でした」

黙って頷く男を見て、店主は静かに微笑んだ。

「それで僕はおばあさんを思い出しながら、自分でコロッケを作ってみました。勿論要領は悪いし、見た目も不格好です。でもひとくち食べた瞬間、あの頃の味が口の中にわあっと甦りました。まるで僕の手におばあさんの味が宿っているかのようにね。そして食べているとひとりでに涙がぽろぽろとこぼれてきました。懐かしさと感謝と、ろくにお礼も言わなかった申し訳なさと……。でもそのうち、だんだん体の中に力がみなぎってくるような不思議な感覚が湧いてきました。おばあさんのコロッケには、そういう特別な力があったのかもしれません」

「それはよく判るよ。俺もいつもそう思ってた。最初にここに来た時から、ずっと」

店主は嬉しそうに頷いた。

「それで僕は思い切って会社を辞めてこの店を開いたのです。一人でも多くの人に元気になってほしくてね」

そして店主はじっと若い男の目を覗き込んで言った。

「子供が自分で人生を選ぶことは難しい。でも大人は自分で自分の人生を考え、選択することができます。それを忘れないようにして下さい」

店主の言葉は、不思議と男の胸にすとんと届いた。
言われてみればそのとおりだった。仕事も環境も、自分の目の前にあるものだけが全てという訳ではないのだ。

「マスター、次はお餅コロッケにしようかな」

店主は威勢よく返事をすると、じゅうっと小気味いい音を狭い店いっぱいに響かせた。

若い男が会社を辞めたのは、それからしばらく後のことだった。
このまま上司の理不尽な言動に振り回され続けるのは人生の浪費以外何物でもない、と思い至ったのだ。
先の不安はあれども自分なりの決断を経てすっきりした男は、久しぶりにコロッケバーを訪れることにした。
ところが通い慣れた路地裏をいくら歩き回っても店が見つからない。まさか閉店したのだろうか。だがここだと思しき場所はただの空き地で、店の名残を思わせる跡すらない。

「お兄さん、どうしたね?」

男が途方に暮れていると、向かいの店から出てきた男性が声を掛けてきた。

「あの、ここにコロッケバーがあったはずなんですけど……」
「コロッケバー?」

男性は怪訝そうに首を傾げた。

「ここはずっと前から空き地だよ。お兄さん、路地を間違えてるんじゃないかな。もっともこの辺でそんな店があるなんて聞いたことがないけどね」

男性はそう言い残すと、そのまま歩いて行ってしまった。

店がない?これではまるで店主の話と同じではないか。辛い境遇の中で偶然手にした心地よい場所が、いつの間にか跡形もなく消えてしまう……。

諦めきれず辺りを見回した若い男は、その空き地の片隅に小さな地蔵が据えられているのを目にした瞬間、はっと気がついた。

今まで何度あの店に通っても、店主以外、誰にも会わなかったことに。

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