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BARほど素敵な隠れ家はない 第一章

プロローグ 食前酒


こんばんは、ようこそおいで下さいました。
ああ、どうか緊張なさらず。バーというのは、決して肩肘張るところではございません。いつもの日常からほんの少し離れて、ゆったりとしたお気持ちで寛いで頂くための場所なのですから。
さあどうぞ、お好きな席へお座り下さい。

ええ、お酒のそれほど得意でない方も大歓迎ですよ。
むしろそれこそ我々バーテンダーの腕の見せどころ。旬のフルーツや素敵なグラスを使って、見ためも鮮やかな珠玉の一杯を作って差し上げましょう。どんな方にでも楽しんで頂ける店が、真の名店と言えるのですから。

静かで落ち着きのあるしつらえに、微かに流れる心地よいBGM。
でも本当は、お客様との密やかなおしゃべりが何よりの音楽なのです。

さあ、今宵は何をお飲みになりますか?
どうぞお好みを仰って下さい。如何ようにもお作り致しますよ。
ここから先はあなたのための時間と場所なのです。

ようこそ、いらっしゃいまし。
それでは奥深きバーの世界を、どうぞ存分にご堪能下さいませ。


第一章 始まりのジントニック 陣野雅之


「なあ、このあとどうする?もう一軒行くか?」
「ねえねえ、カラオケ行きましょうよー!」
「おっ、いいねえ。飲んだ後は歌って発散か。おう、二次会行くヤツー!1、2、3……あれ陣野、おまえは行かねえの?」

突然名指しされた雅之は、咄嗟に言葉を濁した。

「んー、ちょっと今日は……」
「そんなぁ、陣野さん。せっかくだから行きましょうよー」

若い女性が馴れ馴れしく陣野の腕を引く。互いに酒が入っているとはいえ、必要以上に腕を絡ませてくる年下の女性社員に、内心雅之は閉口していた。

「その……今日体調イマイチでさ。ごめん、みんなで行って来てくれよ」

同僚からのブーイングを作り笑いでかわし、しつこい誘いを何とか振り切った雅之は、一人繁華街の路地をぽつぽつと歩いていた。

金曜日の夜の繁華街はやはり人が多い。まだ遅い時刻ではないのに、既にできあがったサラリーマンの集団が大声で笑いながら狭い歩道を塞いでいる。男性と見れば吸いつくように声をかけてくる客引きの男たちをやり過ごしながら、雅之はこれといったあてもなく歩き続けた。

実のところ体調が悪い訳でも何でもない。元々雅之はカラオケがあまり好きではなかった。人が歌うのを聞いているのはまだいいが、盛り上がった勢いで歌え歌えとマイクを押し付けられるのが何より嫌なのだ。
一次会の居酒屋でそれなりに飲み食いはしたが、喧騒の中で飲む酒はどうにも味気ない。” とりあえず ” の生中と半端な温度の熱燗を喉に流し込んだ程度だ。

元来酒は嫌いではないが、学生時代のような無茶な飲み方はそろそろ疲れるようになってきた。とは言え同世代の仲間と行けば、チェーンの居酒屋あたりがせいぜいだ。お洒落なカフェバーに行くような相手もいない。

何となく飲み足りない気持ちで未練がましく歩いていた雅之は、ふと視界を横切った姿に足を止めた。

――あれは……。

ほんの一瞬だったから定かではないが、今の後ろ姿は篠原怜子ではなかったか。陣野はしばらくの間、篠原らしき姿が消えていった古い雑居ビルの間の細道をぼんやりと眺めていた。


「おはようございます、篠原さん」

週明け月曜日の朝、雅之は会社に着く早々に経理部へ足を運んだ。
篠原怜子はいつものとおり経理部の席に座って、まだ始業前だというのに猛烈なスピードで電卓を叩いていた。

「あの、朝からすみません。ちょっとお伺いしたいことが……」
「――あ?」

篠原は電卓から顔を上げると、じろりと雅之を見上げた。

経理部の篠原と言えば、社内で知らない者はいない。
入社以来、経理畑一筋に歩んできた篠原は、役職こそ単なる主任クラスだが会社のカネの動きを隅から隅まで把握しており、その発言は部長ですら無視できないという、言わば経理の影の主だ。社員歴が20年近いことを考えると、そろそろ四十過ぎというところだろうか。
ナチュラルメイクと言えば聞こえはいいが、世間がうるさいから仕方なくしている感満載の地味なメイクを施した顔にフレームレスの眼鏡をかけた篠原は、今では半ば死語となった”女史”という言葉がぴったりだった。

その篠原に眼鏡越しで睨まれると、つい雅之は姿勢を伸ばしてしまう。まるで職員室で担任に怒られている小学生のようだ。

「何ですか」
「あ、えーとですね。篠原さん、この前の金曜の夜、もしかして絹衣町きぬえちょうに……」

そう言いかけた雅之の舌がきゅっと縮こまった。
篠原の眉間にはっきりと皺が寄ったのを見て取ったのだ。

「――仕事に関係ない話なら別の時にしてもらえないかな。悪いけど」

微塵も悪いとは思っていない声音で会話を断ち切ると、篠原は脇に立つ雅之を完全に無視して再び電卓を叩き始めた。
すげなくフラれた雅之は、すごすごと尻尾を巻いて営業二課にある自分の席に戻らざるを得なかった。

考えてみれば、元々雅之は篠原と親しい訳ではない。話をしたことは何回かあるが、それはあくまでも「営業と経理の仕事上の話」であって、世間話や雑談などとは程遠い。大体他部署の、しかも自分より軽く一回りは年上の女性と話す機会など滅多にあるものではなかった。
迂闊に声をかけた自分が馬鹿だったかと、雅之は暗澹たる面持ちで、とぼとぼと自分の席に戻った。

「陣野さん」

昼食後に休憩スペースで珈琲を飲んでいた雅之は、ひょいと振り返って仰天した。すぐ後ろに篠原怜子が立っているではないか。

「あ、し、篠原さん……今朝はその、失礼しました」
「こちらこそ、ちょっと朝から立て込んでいたもので。それで何ですか。何か金曜の夜がどうとか言ってたけれど」

雅之は一瞬ためらった。何しろ完全にプライベートタイムの話なのだ。だがつい好奇心の方が勝ったようで、雅之は腹を括って話し出した。

「あの、個人的なことをお尋ねするようで申し訳ないんですけど」
「前置きはいいから」

ぴしりとした物言いに、雅之はうっと詰まった。これは相当に手強そうだ。

「実は金曜の夜、絹衣町で篠原さんをお見かけしたんです。と言ってもほんの一瞬ではっきりとは判らなかったんだけど、何と言うかその……姿勢っていうか立ち姿がすごく似ていて」

篠原は年齢こそ40代だが、いつもしゃんと姿勢を伸ばし、切れのいい歩き方をする女性だった。

「……それで?」
「あの失礼ですけど、あんまりああいう場所に行きそうな方に見えないものだから、つい気になって……」

篠原は呆れたように大きく溜息をついた。

「あなたねえ。私が仕事の後にどこで何してようと私の自由でしょ?何でそれをあなたに教える必要があるわけ?」

まさに正論中の正論だ。だが雅之が気になったのは、何も篠原のプライベートをほじくり返したいからではなかった。

「それは判ってます。でも僕、どうしても知りたいことがあるんです。それでもしかしたら篠原さんがご存知なんじゃないかと思って……」
「知りたいこと?」
「僕、お酒が飲める店を知りたいんです」
「……は?」

篠原の冷たい反応にもめげず、雅之は必死に食い下がった。

「僕、ほんとはお酒好きなんですけど、仲間と飲みに行ったりすると普通の居酒屋とか焼肉屋とか、そんなのばっかなんですよ。それはそれで悪くないです。でも何て言うのかな、大勢でわーっと騒いで飲む酒じゃなくて、もっとこう美味しいお酒をゆっくり味わって飲める店がないかなって。僕、そういう店全然知らないんです。それでもしかしたら篠原さんが知ってるんじゃないかって……何だかすごく慣れた感じで歩いてたから」
「陣野さん、あなたいくつ?」
「31歳です」

篠原はますます呆れた様子で、雅之の顔を斜め上から見下ろした。
「そんなの知らなきゃ自分で調べればいい話でしょうが。何のためにスマホ持ってんの?今時スマホがあれば大概のことは調べられるでしょうに。三十越えた男が飲む店のひとつも見つけられないわけ?」

まったくもって、聞きしに勝る辛辣さだった。

「それはそのとおりです。でも調べても何かいまいち判らなくて。店のサイトっていいことしか書かないし、変な店入ってヤバい目にも遭いたくないし。でも僕、バーってものに何となく憧れがあるんですよ。ちょっと暗くて、カウンターがあってバーテンさんがいて……。でも何かハードル高そうっていうか、一見さんお断りみたいな感じ、ないですか?それで何となく行きそびれちゃってるんです」

篠原は腕を組んで、じっと雅之の顔を見下ろしたまま言った。

「誰か上司や取引先の人に連れてってもらったりとかないの?」
「今は逆にみんな気を遣って行かないですよ。下手に上が飲みに誘っただけでパワハラとか言われかねない時代だから。僕は誘われたら喜んで行きますけど、全然そういう話ないんです」

篠原は、へえと意外そうな顔をした。

「営業なんて今でも結構接待とかあると思ってたけど、そうでもないんだ。そう言えば最近はその手の領収書も減ってるね。あってもせいぜいキレイめの海鮮居酒屋みたいな感じで」

そう言うと篠原はかけていた眼鏡をすいと外した。
素顔は意外に優しい顔立ちだ。

「まあ言いたいことは判らなくもない。わざわざ教えてあげる義理もないけど、今時あなたのような年齢でバーに行きたがる人も珍しいから、まあそれに免じて多少の情報提供はしてあげるよ」
「じゃあ、やっぱりあれは篠原さんだったんですか?」

篠原はひょいと肩をすくめた。

「場所と時間を考えると恐らくそうだろうね。こっちはちっとも気づかなかったけど」
「篠原さんはどんな店に行ってるんですか?やっぱりバー?」
「まあそうだね。それで自分はどんなバーに行きたいわけ?」
「あの、バーっていろいろあるんですか?」

篠原はやれやれとため息をついた。

「ほんとに何にも知らないんだね。一口にバーと言っても、お酒しか出さないオーセンティックバーもあれば、レストラン並みにフードメニューが豊富な店もある。ダイニングバーと言えば判るでしょう?」
「おーせ……何ですか?」

篠原は二本の指を額に当てた。

「ああ、そこからか……オーセンティック。“本物の”とか“正統的”みたいな意味。つまりあなたがバーと聞いて真っ先に想像しそうなお店。さっき自分で言ってたでしょう。『ちょっと暗くて、カウンターがあってバーテンがいて』ってやつ。当たり前だけどバーは基本的にお酒を飲むところだから、昔ながらのスタイルのお店だと食事は出さないし、あっても軽いおつまみぐらい。ナッツとかサラミとかチョコレートとか、そういうの」
「チョコレート?何でバーにそんなもの……」

そう聞きかけた雅之の台詞を篠原は片手を上げて遮った。

「そこまで話してる時間がない。とにかく食事はある方がいいの?なくてもいいの?どっち?」

畳み込むように聞かれて、雅之ははたと考え込んだ。確かに食事もあった方が、夜の時間の過ごし方としては手っ取り早いかもしれない。
だがまずは美味い酒とはどんなものなのかを味わってみたかった。

「あ……じゃあ、そのオー、オーセンティックでしたっけ。そんな感じので」

篠原は、ふむといった感じで頷くと、おもむろに視線を宙に漂わせた。

「だとすると……そうだなあ……あそこはちょっと初心者には厳しいか……」

どうやら頭の中でデータベースをフル稼働させているらしい。その様子を見ているうちに雅之は不意にあることが気にかかり、ぶつぶつと独り言を呟いている篠原に向かって声をかけた。

「あの、やっぱバーって高いんですかね。席料とかある……」

そう言いかけた雅之は、篠原のじろりと睨めつける視線に肝を冷やした。

「それぐらいは考えてるよ。まあチャージ……今そっちが言った席料のことだけど、それは仕方ない。ノーチャージのお店もあるにはあるけど、私の知ってるお店の中にあまりお勧めできるところはない。でもできるだけリーズナブルなところを教えるよ。そうだね、じゃあ……」

翌週の金曜の夜、雅之は浮き立つ思いと緊張の入り混じった気分で、絹衣町の繁華街を歩いていた。会社から少し離れたところにある定食屋で軽く腹を満たし、いざ “ 二軒めの店 ” に向かう。

まあここなら初めてでもさほど気を遣わずに飲めるでしょう、と篠原に教えてもらった店は、歓楽街である絹衣町のやや外れたところにあった。
店のサイトを見た時は「お一人様、初めての方でもお気軽にどうぞ」の一言に安堵したものだが、いざ実際に一人で行くとなると、なかなかに緊張するものだ。
本当は篠原も一緒に来てほしかったし、それなりに匂わせもしたのだが、そんな雅之の意図に気づいているのかいないのか、篠原はまったくその素振りも見せなかった。

「――チャージは800円、カクテルも普通のものなら1000円前後。馬鹿みたいに飲まなければ、まあ5000円から高くても8000円というところでしょう。軽いおつまみはあるけれどお腹が膨れるようなものじゃないから、私としては事前に何か食べてから行くのを勧めるね。じゃ、頑張って」

そう言うと篠原はすたすたと歩き去ってしまった。
雅之が慌てて口にした礼も果たして耳に届いていたかどうか。

篠原が経理の影の実力者というだけでなく、口を開けば相当にキツい人間だという社内の噂を、雅之は今頃になって思い出した。だが確かに思ったことは歯に衣着せずに口にするが、そのかわり必要なことはきちんと教えてくれる。雅之の眼には少なくとも嫌な人物には映らなかった。ただし甘さは微塵もなさそうではあるが。

「ここ……だよな?」

手許のスマホには、目的地と現在地が間違いなく一致している画面が表示されている。
繁華街の中に幾つもひしめく古ぼけたビルのひとつだ。派手なネオンの中に浮かび上がる薄汚れた壁に貼りついたどぎつい色合いの看板を、雅之は呆然と見上げた。

『メンバーズクラブ・紗枝』
『キャバクラ・シャルマン』
『人妻天国』

よく見ると周りのビルも似たり寄ったりの店構えだ。まあ絹衣町自体がこの地域屈指の歓楽街である以上、それはやむを得ないかもしれない。だがあまりこの手のモノが得意ではない雅之は、いかにもといった店名のオンパレードに早くも足が後退しかけるのを感じた。

「あ、あれか……!」

思わず雅之は声を上げた。
ぎょっとする店名がずらりと並ぶ中に混じって、目当てのバーの名前がひっそりと掲げられているではないか。
だがこんなビルに一人で入るところを誰かに見られたら……そう、自分が篠原を見かけたように……。
雅之はちらりと周りに目を配ると、急ぎ足でビルの中に入った。狭いホールには幸い誰もいない。3人も乗れば満員の小さなエレベーターで目的の6階まで上る。
何もやましいことなどないのに、何だかひどく後ろめたい気分だった。

ドアが開くや一瞬身構えた雅之は、拍子抜けしてエレベーターを降りた。
本当に小さなフロアだ。殺風景な灰色の壁にはあちこちひびが入り、すすけた蛍光灯がばちばちと落ち着かなげに瞬いている。まるで昭和の頃の小さな病院のような味気なさだった。

狭いフロアにはたった二軒の店しかなかった。
右手はどうやらカラオケパブのようだ。ドアの前に置いてある看板が、辛うじて夜の街らしさを漂わせている。
そして左手が『BAR Debby』、篠原ご推薦のバーだ。
乾いた光で無機質に照らされたフロアの壁に、武骨なドアが埋まっている。そのドアにぶら下がる『BAR Debby』と書かれた小さな木製のプレートが唯一の装飾だった。
雅之はひとつ息を吸い込むと、そっとドアのノブを回した。

――重い……!

思わぬ手応えに驚きつつも、雅之はぐっと力を込めて鉄製の分厚いドアを押し開けた。

「――こんばんは。いらっしゃいませ」

深いトーンの声が暗がりから響いた。
最初は店の暗さに戸惑ったが、目が慣れると次第に中の様子が浮かび上がってくる。
黒く分厚い一枚板のカウンターの上から降り注ぐ、暖かなダウンライト。どこかで聴いたことのあるような古いジャズ。そしてカウンターの向こうには、これまた“The・バーテンダー”といういで立ちの男性が立っていた。白いシャツに黒のベスト、細いネクタイが綺麗に胸元を彩っている。年の頃は四十代半ばといったところだろうか。

「どうぞ、お好きなお席へ」

バーテンダーから穏やかに促され、雅之は恐る恐るカウンターのいちばん端に腰掛けた。そこで初めて、先客がいたことに気づく。身なりのいい物慣れた風情の老紳士だ。反対側の端に座り、ゆったりとウィスキーらしきグラスを傾けている。
雅之が座ると、バーテンダーがいい香りのする熱々のおしぼりを渡してくれた。その辺の喫茶店のおしぼりとはずいぶん違う、と早くも雅之は度肝を抜かれた。

「何になさいますか」
「あ……えーとメニュー、見せてもらえますか」

バーテンダーは、にこりと微笑んでカウンターの下から黒い革張りのメニューを取り出した。
さすがにバーというだけあって、品書きのほとんどが酒ばかりだ。ウィスキーひとつ取っても、バーボン・スコッチ・アイリッシュと分かれた上に、それぞれの銘柄がずらりと並んでいる。お次はカクテルだ。ジン・ウォッカ・テキーラ・ラム……そして同じく下にはたくさんのカクテルがラインナップされている。
あまりの多さに一体どれを選べばいいのか判らなくなった雅之の頭に、ふと篠原の言葉が浮かんだ。

「何を飲むか迷ったら、とりあえずジントニックあたりから始めてみるといいかもね。強すぎず弱すぎずで、そこそこ飲める人なら取っつきやすい。シンプルでさっぱりした味だから、何にでも合う」

ちょうど会社を出る時に会った篠原に今から行くんだと告げると、そんな答えが返ってきたのだ。

「何に致しましょう」
「ああ、はい……じゃあジントニックを……」
「ジントニック。かしこまりました――何かお好みのジンの銘柄はございますか?」

雅之はぎょっとして首を振った。

「いえ、特に……お任せします」

これじゃ素人丸出しだ、と雅之は忸怩たる思いだったが、バーテンダーはまたもにこりと笑みを浮かべて、後ろの戸棚にずらりと並んだボトルの中から、緑色の瓶を取り出した。

雅之は初めて見る光景に興味津々、カウンターの向こうを覗き込んだ。
バーテンダーは、ほとんど移動しないにもかかわらず手際よく準備を進めていく。手の届く範囲にあらゆる物が置いてあるようだ。緑色の柑橘をジューサーでぎゅっと絞ると、フレッシュで爽やかな香りがぱっと立ち込めた。

「――お待たせしました。ジントニックです」

店の名前が入った分厚い紙のコースターに、細長い円筒形のグラスが静かに置かれる。

「へえ、綺麗だなあ」

雅之は思わず呟いた。
これまで飲んできた酒はまずビール、たまに日本酒や焼酎を飲む程度で、見た目に綺麗と思えるような酒を飲んだことはほとんどない。洒落たグラスの中に形よくカットされた大ぶりな氷が浮かび、涼しげな泡が微かに踊っている。綺麗に切られた柑橘の緑が、透明なグラスと液体に美しく映えていた。

「お客様は当店が初めてていらっしゃいますか?」
「あ、はい。て言うか、バー自体が初めてで……」

バーテンダーは驚いたような顔で何度か頷いた。

「それはそれは、ようこそおいで下さいました。当店は何でお知りになりましたか?ネットか何かでしょうか?」
「いえ、人に紹介されて……」
「ほう。失礼ですが、どなた様から?」
「あ、あの判るかどうか……四十代ぐらいの女性で篠原さんていうんですけど、その人に教えてもらって……会社の先輩なんです」

するとバーテンダーは、ぱっと相好を崩した。

「篠原さん!そうですか、あの方から……それはありがとうございます。彼女のご紹介ということは、相当お酒の判る方でいらっしゃるのかな」

雅之は慌てて手を振った。

「とんでもない。僕、全然知らないんです、こういうの。酒自体は好きなんだけど」
「なるほど、それで篠原さんにご教授願った、と……それは大正解ですね。申し遅れました、私、オーナーの関と申します。どうぞお見知りおきを」

そう言うとバーテンダー……関は慣れた手つきで名刺を一枚、カウンターの上に置いた。確かに『BAR・Debby ORNER   関 榛仁はるひと』と書いてある。バーテンダーにも名刺があるなど、雅之は初めて知った。

「篠原さんか。そう言えば最近お会いしてないですねえ。お元気ですか?」

その口調は、まるで親しい友人の近況を尋ねるかのようだ。

「あ、はい。お元気……というか、まあなかなか手厳しいと言いますか……。元々は僕が絹衣町で偶然篠原さんを見かけて、それで後から彼女に頼んでおススメの店を教えてもらったんです。最初は『そんなの自分で調べなさい』って言われちゃったけど」
「ああ、そうですか。確かにあの方ははっきり物を仰いますからね」

愉快そうに笑うと、関は小さなグラスに水を注いで軽く口に含んだ。

「けれども実際には、とても情のある方なのですよ。以前もある女性のお客様が具合を悪くされた時、さっと席を立って化粧室にお連れ下さったことがあります。確かに男性では介抱しにくいですからね。そういう気配りのできる方です」
「あ、そう言えば会社でも女性社員には意外に優しい、って聞いたことあります」

関もなるほどと笑った。

「でもそうか。何だかんだ言って今日ここにくる前にも、『飲むものに迷ったらジン・トニックにするといい』って教えてくれました」

関はそうそうと頷いた。

「優しさというのは、必ずしも手取り足取り世話を焼くことじゃないですからね。彼女がここを紹介してくれたということは、きっとあなたに……ああ、失礼ですがお名前を伺ってよろしいですか?」
「あ、陣野です。陣野雅之」
「ほう、陣野さん。今日お飲みになったものと同じ名前ですね」

そう言えば、と雅之は笑った。

「ジントニックは、スピリッツ――要はお酒ですが――のジンに、トニックウォーターを混ぜてライムもしくはレモンを絞ったものです。アルコールの度数も中ぐらいでシンプルな味だから、場面や食事の相性を選びません。カクテルが初めての方には、まさにお勧めの一杯です」

そう言うと関はさっき使った緑色の瓶を手に取り、ラベルを雅之に向けてことりと置いた。

「本日お作りしましたのは、こちらのジンを使っております。『タンカレー ロンドン ドライジン』。非常にバランスのよいスタンダードなジンで、バーならほとんどの店に置いてあると思います」

緑色のぼってりしたボトルに、赤いエンブレムのついたデザインが特徴的だ。

「篠原さんもジンが好きなんですか?」
「そうですね。確かにジントニックはお好きですが、でもわりと何でもお飲みになりますよ。その時の気分に合わせて」
「へえ、カッコいいなあ。僕、できれば一緒に来てほしかったんですよ。何しろ僕はバーっていうものがまったくの初めてで、右も左も判らなくて不安だったものだから。でも篠原さんは、ほんとつれなくて」

すると関は、うーんと首を傾げた。

「さて、それはどうでしょうか。たぶん篠原さんは、敢えてご一緒しなかったんだと思いますが」
「え?やっぱり自分でやれってこと?」

関は声を上げて笑った。

「まあそれもあるかもしれませんが、やはりトラブルを避けるおつもりだったんでしょうね」
「トラブル?」

雅之がきょとんとすると、関は困ったように首を傾げた。

「やっぱりね、こういうお店に異性と来るっていうのは、まあそれ相応に親しい関係が多いわけですよ。もちろん絶対ということはありませんが」
「あ……そうか」
「はい。もちろんお二人にそのおつもりはなくても、こういう場所ですから誰がどこで見ているか判らない。また人というのは、見たいようにしか見ないし、聞きたいようにしか聞かないものです。好き勝手な噂を社内で流されたりしたら困るでしょう?」
「確かにそうです。僕の我儘で、篠原さんに迷惑かけちゃまずいですよね」
「いや、逆でしょう」
「逆?」

関はまた小さなグラスに水を注ぎ、今度は雅之の前にそっと置いた。

「篠原さんは、たぶんあなたに悪い評判が立つことを懸念したんだと思いますよ。失礼ですがまだお若い方ですから、そこそこ年上の女性との訳ありげな噂を立てられたら、あなたが困ると思われたのでしょう。たとえあなたに決まったお相手がいてもいなくても。それもまた優しさのひとつです。篠原さん流の、ね」

関の言葉に、雅之は小さく頷いた。
そういう人なのか、篠原さんは……。

「お次はどうされますか?お好みを仰って頂ければお作りしますよ」

関がにこやかに尋ねる。いつの間にかグラスは空になっていた。

「ああ、じゃあ今度はもう少し強いもので……」
「ベースはどうしましょう。ジンでいきますか?それとも別のスピリッツを?」

雅之ははたと考え込んだ。口に合ったジンをもう一度味わいたいとも思うが、せっかくだから別のものを試してみたい気もある。

「あの、ちょっと考えます。また後から……」

承知しました、というように頷いた関は雅之の前を離れ、反対側に座っている老紳士のところへ寄ると何事かを囁いた。見るともなしに見ていると、客の返事に頷いた関は、小さな冷蔵庫を開けて何かを取り出し、小ぶりなガラスの器に見栄えよく盛った。

――あれは……チョコレート?

そう言えば篠原が、おつまみにチョコレートを挙げていたことを思い出す。

「あの、すみません」

雅之はチョコレートを置いて戻ってきた関に声を掛けた。

「あれチョコレート、ですよね?お酒にチョコレートって合うんですか?」

向こうの客に聞こえないよう小さな声で囁く雅之に、関は笑って頷いてみせた。

「実はそうなんです。ウィスキーの原料は麦ですが、その麦とチョコレートのカカオの風味は大変に相性がいいのです。それにウィスキーを熟成させる樽の香りも、チョコレートの味わいと絶妙な相乗効果をもたらすのですよ」

へえ、と雅之は驚いた。
するとカウンターの向こうから、老紳士が声を掛けて寄こした。

「百聞は一見に如かず。はるさん、一杯作ってあげてよ」

驚いてそちらを見ると、老紳士がにこにこと笑ってグラスを掲げてみせた。
いくら声を潜めても、狭くて小さな店ではすべて筒抜けだったようだ。

「佐原さん、ありがとうございます。どうです陣野さん、ウィスキーは飲まれますか?」

突然の展開にへどもどしながらも、慌てて首を横に振る。雅之はウィスキーやブランデーの類は、ほとんど飲んだことがなかった。

「榛さん、私のボトル使えばいいよ。そんなにクセはないから飲みやすいでしょう」
「ああ、そうですねえ。『シーバスリーガル ミズナラ12年』。非常に飲みやすい銘柄で、日本のためにブレンドされ、日本原産のミズナラ樽で仕上げられたものです。どうでしょう、ストレートでいってみますか?」
「えーと……」

雅之が口ごもっていると、老紳士が重ねて言う。

「いや、最初はロックの方が飲みやすいでしょう。もしいけそうだったら、後からストレートも試してみればいい。せっかく初めてバーに来たんでしょう。いろいろ楽しんでもらいたいねえ」

結局雅之は、それから何杯もグラスを重ねることになった。雅之の何がどう気に入ったのか、老紳士が気前よく自分のボトルウィスキーを勧めてくれるのだ。何の面識もない人間がどうして自分にこんなことをしてくれるのか、雅之はさっぱり訳が判らなかった。

「いや、こういうところだとたまにありますよ。特にあの方、佐原さんはこの店の古い常連さんでしてね。お気が向くと、ああして他のお客様にお酒を振る舞われるのです。もっともそんなお客様も、今はずいぶんと少なくなりましたが」

その佐原は、少し前に勘定を済ませて店を出てしまっていた。帰りがけに雅之の側まで来て、私も君ぐらいの歳の頃に上司に連れられて初めて来たものだよ、と肩を叩いて。心地よい酒の泉に揺蕩たゆたいながら、雅之は何度も礼を言った。また会おうと笑って出て行く佐原の後ろ姿を、憧れと敬意の眼差しで見送る。

そしてさすがに勧められるだけのことはあって、ウィスキーとチョコレートの相性は抜群だった。
酒のプロである関や、さぞや造詣の深いであろう老紳士が言うほどの細やかな味わいまでは到底判らなかったが、品の良い甘味と苦味を含んだチョコレートが溶けた舌に、とろりと熟したウィスキーを流し込むと、何とも心の潤う、まさに至福ともいうべき気分に満たされた。
最初の緊張感はどこへやら、慣れてみれば隠れ家のようなこの空間が、不思議なほどに心地良かった。

いざ帰る時になって支払額がいくらになるかと怯えたが、カウンターにそっと差し出された小さな紙片に、丁寧な字で¥6,500と書かれているのを見て、雅之はほっとした。
まあ5000円から高くても8000円というところでしょう、という篠原の言葉を思い出す。見事にどストライクの金額だった。もっとも後半の酒代はすべてくだんの老紳士持ちだったこともあるだろうが。

カウンターから出てきた関が、雅之を見送るためにドアを開ける。

「どうぞ、ぜひまたお越し下さいませ。陣野さんでしたら、きっとこれからも楽しんで頂けると思います」

そう言うと関はフロアに出て、小さなエレベーターのボタンを押した。
雅之はふと店を振り返る。この寂れたフロアの分厚いドアの向こうに、あんなに気持ちのいい空間が存在していることが信じられなかった。

「篠原さんによろしくお伝え下さい。たまにはお顔を見せて下さいと」

まるで常連客に接するような親し気な笑顔につられて、雅之も笑みを浮かべた。
がちゃりと軋んだ音を立ててエレベーターの扉が閉まると、思わずほう、と息が漏れる。狭いエレベーターを降りて外に出ると、火照った頬にひやりとした空気が心地良かった。

「月曜日、ちゃんと篠原さんにお礼言わなきゃな……」

――別にお礼言われるようなことしてないけれど。

そんな篠原の辛辣な台詞を頭に思い浮かべながら、雅之は酒と熱気に赤く染まった頬を緩め、いささか覚束ない、だが楽しげな足取りで駅へと向かっていった。

第一章 始まりのジントニック 陣野雅之
第二章 挑戦のソルティドッグ 鹿島みのり
第三章 大人へのモスコミュール 篠原那奈
第四章 始まりのジントニック・再び 篠原怜子

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