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BARほど素敵な隠れ家はない 第二章

第二章 挑戦のソルティドッグ 鹿島みのり


「もう、いっつも自分ばかり飲みに行って……!たまには私だって行きたいのに」

鹿島みのりは、ぶつぶつと文句を言いながら家を出た。

まだ新婚間もないというのに、週末ともなると夫の将太は毎週のように会社の仲間と飲みに行ってしまう。今日も今日とて「明日の金曜、飲み会だから」の一言を残して、さっさと仕事に出かけてしまった。

それならそれで、みのり自身も友人と飲みに繰り出せばよさそうなものだが、如何せん結婚してこの地に越してきたばかりで、一緒に出掛けるような知り合いもまだいない。会社の同期はほとんど男性ばかりで誘うのもためらわれるし、部署のメンバーは全員年上で、とても話が合いそうにない。

つまるところは八方塞がりで、すごすごと家に帰って撮りだめたドラマでも観ながら、一人寂しく出来合いの惣菜をつまむのが常だった。

もう会社に着いたというのに、どうにも苛立ちが収まらない。
自分の顔がいつになく強張っているのを感じながら席に向かったみのりは、思わぬ人物が自分の席の近くにいることに気づいて足を止めた。

――あれは二課の陣野さん……?

陣野雅之は、営業二課の若手社員だ。若手とは言ってもそろそろ三十歳を超える年だが、実際の年齢より若く見える上に、何よりその端正な顔立ちとすらりとした長身が、女性社員の口を賑わせることこの上ない。そのくせ未だに独身とあっては、騒がれるのも当然だった。
もっとも当の本人はそんな評判を知ってか知らずか、いつもおっとりしているものだから、またそれが人気に拍車をかけているのだが。

その陣野が何故か経理部に、しかも女性ながら強面と評判の篠原怜子のところへ来ているのだ。何かまずいことでもあったのだろうか。
だがそのわりに陣野の表情は暗いどころか、何やら楽しげだ。
もっとも篠原はいつもの仏頂面ではあるが。

「おはようございます、篠原さん、陣野さん」
「ああ、おはよう、みのりちゃん――さあもういいでしょう。自分の席に戻りなさい」

みのりは思わずぷっと吹き出した。
大先輩である篠原の男性社員に対する態度は、いつもながら辛辣な塩対応だ。
配属されたばかりの頃は何と怖い先輩かと恐れをなしたものだが、意外や若輩のみのりには親切だった。ミスをすれば当然注意はされるが、頭ごなしに怒るようなことはしないし、必ず後から「さっきの判った?」とフォローを入れてくれる。よくよく見てみると、他の女性社員に対しても似たりよったりの態度のようだ。
おかげで男性社員からは魔女のように恐れられているが、女性社員からは厚い信頼と尊敬を得ているというのが専らの評判だった。

「ああ、すみません、お仕事の邪魔をして。でもありがとうございました。また今度、別のお店も教えて下さい」

うるさそうに篠原が手を振るのを見て、ついみのりは口を挟んだ。

「お店?陣野さん、篠原さんとどこかに行ったんですか?」

その瞬間、まさに般若のような目つきで篠原が陣野を睨む。

「あのねえ、余計なこと言うんじゃないの。まったく口が軽いというか、配慮がないというか、ほんとにもう」

ひえっと飛び上がった陣野が、慌ててみのりに向かって口を開いた。

「違う違う、そうじゃないよ。あのね、僕がバーに行ってみたくて、無理言って篠原さんに行きつけの店を教えてもらったんだよ。それで先週の金曜に行ってきたから、そのお礼と報告をしようと思って……」
「行きつけのバー?篠原さんってバーに行くんですか!?」
「陣野さん!余計なこと言うんじゃないって言ってるでしょうがっ!いいからさっさと部署に戻りなさい!!」

特大の雷を落とされた陣野は、すみませんすみませんと謝り倒しながら、ほうほうの体で営業二課へ戻って行った。

「あ、あのすみません。私、余計なこと聞いちゃって……」

思わずみのりが謝ると、篠原はひょいと手を振った。

「いや、いいのいいの。別にみのりちゃんに怒った訳じゃないから。けど、まったくあの営業の坊やは困ったもんだね。ちゃんと仕事してんだろか」

ぶつぶつと文句を垂れている篠原を見ながら、みのりはあることを思いついた。


「あの篠原さん。今ちょっといいですか?」

その日の昼休み、みのりは休憩室の片隅でコーヒーを飲んでいる篠原に声を掛けた。篠原が仕事中の雑談を殊の外嫌うのは、相手が男性でも女性でも変わらない。きちんと話したければ、昼休みか終業後を狙う方が得策であることは、本社経理部へ異動して間もないみのりでも、充分に推測できた。

「何、あらたまって。今朝のことなら、みのりちゃんは気にしなくていいんだよ」

みのりは慌てて首を振った。

「いえ、違うんです。て言うか、今朝のことには違いないんですけど。あの、陣野さんが言ってたことって本当ですか?篠原さんにバーを紹介してもらったって」

篠原は憂鬱そうに溜息をついた。

「ああそれ……まあ確かに教えることは教えたよ。何だかよく知らないけれど、たまたま私が絹衣町きぬえちょうを歩いてるところを見かけたんだってさ。それで自分もバーに行ってみたいから、どっか教えてくれって言うもんだから」
「それって篠原さんが詳しいってことなんですよね。バーとかそういうの」
「いや詳しいというか、たまに気が向けば行くって程度……」
「教えて下さい!私も行きたいんです!いっつも夫ばかり飲みにいくものだから、私つまんないんです!お願いします!!」

静かな休憩室に、みのりのハイテンションな声が響き渡った。


翌日の昼休み、みのりは席で頬を緩めながら、小さな冊子に見入っていた。

「あれ、誰もいないや。あの、篠原さんもまだ戻ってないかな」

ふり返ると、またも陣野が立っていた。みのりは手にした冊子を閉じると、ぼんやり立ち尽くしている陣野に体を向ける。

「篠原さんは外に行きましたよ。お帰りはたぶんぎりぎりだと思いますけど」

陣野は明らかに落胆したようだった。

「そっかあ……。せめてお礼ぐらい言いたかったんだけどなあ。あ、僕ほんとにお店を教えてもらっただけだからね。篠原さんに迷惑かけたくないから言っとくけど……えーと、あの……」
「鹿島です」

陣野は見るからに安堵した様子で、こくこくと頷いた。なるほど確かに三十過ぎには見えない。

「鹿島さんね。ごめんね。僕、営業のくせに人の顔と名前覚えるのが苦手で……ねえ、ちょっとそれ何の本?」

そう言うや、陣野は机の上の冊子に、さっと手を伸ばした。

「あ、それは……」
「『絹衣町BAR MAP』……何これ。鹿島さん、どうしてこんなの持ってるの?」

陣野は驚きの表情で、みのりの顔と冊子を見較べた。

「あの、昨日の陣野さんと篠原さんのお話を聞いて、後から篠原さんに聞いてみたんです。篠原さんはバーに行くのかって。もしそうなら、自分も行きたいってお願いしたんです。陣野さんも篠原さんから教えてもらったんですよね?」
「そうだよ。でもこの冊子は?」
「はい、そうしたら篠原さんが今朝これを貸してくれたんです。これを参考にするといいよ、って……」
「何それ、俺の時と全然違うじゃん!俺が聞いた時なんて『そんなもの自分で調べればいい、何のためにスマホ持ってんだ』って言われたんだよ!何、この扱いの差!」

いつの間にか、僕が俺に変わっているところ見ると、よほどショックだったのだろう。

「――『女は加点法、男は減点法』ってのが、私の昔っからのポリシーなんでね。悪いけど」

不意に背後から声がして、みのりと陣野は揃ってびくりと体を強張らせた。そこには手にベーカリーの袋を提げた篠原が、いつもの仏頂面で立っている。

「し、篠原さん……今日は外に出られたと……」
「行った店が混んでたんでね、急遽パンに替えたんだよ。はい、そこどいて」

慌てふためく陣野を片手でいなすと、篠原はさっさと腰を下ろして、二人に構わずパンを食べ始めた。

「篠原さん、ずるいですよ。何で僕にもこれ見せてくれなかったんです」

恨めしそうな陣野の台詞にも、篠原は涼しい顔だ。とは言え、さすがにこれはいささか気の毒すぎると思ったみのりは、恐る恐る口を挟んだ。

「あの篠原さん。お借りした本、陣野さんにもお見せしていいですか?すごく素敵なお店がたくさんありましたし」

貸したものだから好きにすれば、という篠原の言葉に、陣野の顔がぱっと輝く。

「篠原さんが付箋貼ってくれたお店は、女の人でも大丈夫ところなんですよね。だったら陣野さんも……」

途端に陣野ががっくりとうなだれる。

「篠原さん、ほんっとに女性には優しいんですね……」

平然とパンをぱくつく篠原の横顔を恨めしげに見つめる陣野の姿がおかしくて、みのりはまたしてもぷっと吹き出した。


「篠原さん、お疲れ様です。あの、今日これから行くんですけど……」

よかったらご一緒しませんか、と言いかけて口をつぐむ。やはり急に誘ったら迷惑だろうか。

「ああ、そう言えば今日旦那さんがいないんだったね。それでどこに行くか決めたの?」
「はい、篠原さんが付箋つけて下さった中の『COOPER』がいいかなって。バーで食事が美味しいっていうのが、すごく気になるんです。バーってお酒飲むところだと思ってたから」

篠原は机の上を片付けながら、にやりと笑った。

「まあそれはそのとおりだよ。でもバーのフードメニューはなかなか侮れない。正直、下手なレストランよりよっぽど美味しいよ。当たり前だけどお酒はレベル高いし。私も最近夜に外で食べる時は、もっぱらバーばかりだね」「バーのフードメニューってどんなのがあるんですか?おつまみっぽいのなら想像がつくんだけど」

篠原はふむ、と頷いた。

「お店にもよるけど、ピックアップしといたところはみんなすごいよ。ステーキあり、ハンバーグあり、パスタやピッツァありでさ。昔、旅行先で行ったバーには焼うどんがあって、さすがにびっくりした覚えがあるね」

焼うどん!それがバーのメニューかと、みのりは仰天した。

「まあステーキなんかは高いけど、ハンバーグとかなら狙いめかもね。残念ながらCOOPERにはないけども。あそこはイタリアンが中心。生ハムとパスタの種類は豊富だよ。ああいいねえ、話してたら食べたくなってきた」
「ほんとですか!?じゃあ……!」

すかさずみのりは飛びついたが、篠原は苦笑いして手を振った。

「つい最近行ったばかりだからね。さすがにそうしょっちゅうは。大丈夫、COOPERなら一人でも大丈夫だよ。あそこのバーテンさんはみんな優しい人たちばかりだから。ところでみのりちゃんはお酒強いの?」

みのりは、はたと答えに詰まった。
お酒自体は好きで、学生の頃はよくみんなで飲みに行きもした。だが強いかと言われるとどうだろうか。いつもせいぜいビールかハイボールを数杯飲む程度だ。素直にそう言うと、篠原はなるほどと頷いた。

「まあ飲めるには飲めるんだね。それなら大丈夫。判らなければバーテンさんに聞けばいい。さっきも言ったけど、COOPERのバーテンさんはみんな親切だ。何しろノンアルコールでもOKとか言ってるぐらいだし」
「あの、バーでビールとかハイボールって飲んじゃ駄目なんでしょうか」

篠原はきょとんとした顔でみのりを見返した。

「駄目って何でさ。メニューにある以上、何飲んだっていいよ。私はビールは飲まないけど、お客さんの中には座るなり、それこそ“とりあえずビール”の人はちょこちょこいる。何もウィスキーやカクテルだけがバーの酒じゃないからね。好きなものを頼めばいい」
「でもせっかくなら、普段飲むビールとかとは違うものが飲んでみたいんです。でもカクテルとか全然判らなくて」

篠原は肩をすくめた。

「だからさ、そういうのを聞けばいいんだよ。好みの味の傾向と、お酒の強い弱いを伝えれば、バーテンさんがちゃんといいように作ってくれる。変に知ったかぶりするより、その方がずっと向こうもやりやすいよ。大丈夫、COOPERでしっかり教えてもらうんだね」

じゃあ楽しんでおいで、とみのりの肩を叩き、篠原は悠々と帰っていった。


「あ、あった……!」

みのりは目的の店の看板を見つけてほっとした。
大通りに面した角地に立つビルの地下だ。この角を曲がればいわゆる歓楽街の絹衣町になる。いかにもと言った夜の店がひしめく街に、女性一人で足を踏み入れるのは勇気がいるものだ。篠原の教えてくれた店が、ぎりぎりそのエリアから外れていることにみのりは内心安堵した。

店に通じる地下への階段の横に『Bar&Dish COOPER』と書かれた小さな看板がひっそりと立っている。恐る恐る足を踏み入れたが、見たところ階段もフロアも明るく、幾つか並ぶ店は普通の居酒屋や食事処ばかりだ。
とは言え、女性一人で居酒屋に来る客などいるはずもなく、みのりは何となく場違いな雰囲気を感じながら奥へ進んでいった。

篠原に言われたとおり、『COOPER』はフロアの突き当りにあった。他の店のガラスの自動ドアとは違い、雰囲気のある木の扉だ。OPENの札がかかっていることを何度も確認して、そっと押し開ける。

――重い……!

想像に反して、扉は意外に重かった。思い切って力を入れると、ドアベルが派手な音でじゃらんじゃらんと鳴り、思わずびくりとする。みのりはまるで猫さながらに、扉の隙間から忍び込むようにして体を差し入れた。
そこは店というより、ホテルのフロントのようだった。小さな玄関ホールにレジと思しきカウンターがあるだけだ。本当にここがバーなんだろうか。

「いらっしゃいませ」

勝手も判らず立ち尽くしていると、奥から一人の男性が出てきた。その姿を見たみのりは思わずぎょっとする。
身長180cmはあろうかという長身に、がっしりとした体形の男性だ。白いYシャツにネクタイを締め、黒のスラックスを履いているあたりからしても店のスタッフなのだろう。だがどう見てもバーテンダーというよりは、柔道部かラグビー部のOBのような雰囲気満載だ。

「こんばんは。お待ち合わせでございますか?」

見かけに反しての穏やかな物言いに、みのりは我に返った。

「あ、あの。いえ、一人……なんですけど、いいでしょうか」

男性は微かに驚いたような表情を浮かべたが、すぐににこやかに頷いた。

「もちろんです。ちょうど今は空いていますよ。どうぞこちらへ」

よく見ると、ホールからカーブして細い道が繋がっていた。どうやらその奥が店のようだ。
案内されたみのりは驚いて立ち止まった。小さな入り口からは想像もつかないぐらい広い。店の中は落ち着いたトーンの灯りで満ちて、まるで品の良いレストランのようだ。当然カウンターはあるが、それ以外にもテーブル席がざっと10近くはある。バーと言えば薄暗い店内にカウンター席というイメージしかなかったみのりは、いったいどこに座ったものかと途方に暮れてしまった。

「どうぞ、今日はまだ誰もいませんから、よろしければカウンターへ」

柔道家バーテンは手際よくみのりの上着を預かると、目顔で案内する。4人も座ればいっぱいのカウンターの端にちょこんと腰掛けるや、柔道家が人懐っこそうな笑顔で言った。

「初めてお見かけしますが、これまでにご来店頂いたことは……」
「いえ、今日が初めてです」

彼はやはりという顔をして頷いた。

「ですよね、もしかして僕が休みの日にお越しになった方かなあと思いましたが。さて、何をご用意しましょうか。まずは一杯お飲みになりますか?それともお腹が空いていらっしゃるなら、お食事もできますよ」

みのりは戸惑いながらも、篠原の言葉を思い出して言った。

「あの、実は私バーって初めてなんです。お酒とかもよく判らなくて。こちらはごはんも美味しいからって聞いたので、できれば両方……」

バーテンはしまった、というように軽くのけぞった。

「これはこれは失礼しました。ではメニューをご覧になって下さい。こちらがドリンク、こちらの赤い方がお食事のメニューです。どうでしょう、何か軽いものがいいですか?それともガッツリ食べたい気分ですか?」

みのりはつられて笑った。

「うーん、結構お腹空いてるかも……」

そう言いながらみのりはフードメニューを開いた途端、ぎょっとした。
前菜と称して、生ハムだけでも数種類がリストアップされている。様々なサラダ、野菜のオーブンメニュー。パスタやピッツァはざっと10種類以上。さらにメインディッシュとして肉料理、魚料理とまるで高級レストランさながらだ。あまりの多さに、みのりは何を選べばいいか判らなくなってきた。
そんなみのりの表情を察したのか、柔道家が助け舟を出した。

「何かお好きなお飲み物がありましたら、それに合わせてお食事を選んではいかがでしょう。どんなものがお好みですか?」
「それが普段はビールとかしか…」
「ビール!どうぞうどうぞ、うちはエビスが美味いんです。指定店で特別なサーバー使ってますから。よし、まずはビールでいってみますか」

みのりはほっとして頷いた。せっかくならカクテルか何かを飲んでみたかったが、まずは何か一つ決めないと話が先に進まない。
柔道家は傍らのサーバーから手際よくグラスにビールを注いだ。よく冷えたグラスにまるでCMのような泡立ちは、もはや完璧としかいいようのないビジュアルだ。

「えー何これ、美味しい!」

ひとくち含んだみのりは思わず声を上げた。これまでに飲んだどんなビールとも違う、きめ細かな泡とまろやかな味わいにうっとりとする。

「どうです、美味いでしょう。ウチはこれも売りのひとつでね。さてお食事の方はどうしましょうか。前菜がわりにカマンベールチーズとサラミのオーブン焼きなんてどうでしょう。ビールによく合いますよ」
「それ、お願いします!」

考える間もないみのりの即答に、柔道家が笑いながら奥に声をかけた。

「奥田君、『チーズとサラミのオーブン焼き』をひとつ、お願いします」
「うほーいっ」

黒いカーテンの向こうからおどけた声が返ってきた。どうやらカウンターの奥が厨房のようだ。

「おや、いらっしゃいませ」

カーテンが揺れ、もう一人の男性がひょいと顔を覗かせた。みのりの姿を認めると、するりと姿を現す。つい今、中から返事をした人とはまた違うようだ。
最初の柔道家と違い、こちらはもう絵に描いたようなバーテンダーだった。彫りの深い顔立ちにベストと蝶ネクタイがよく似合っている。

「いつの間にいらしていたのか、気づかずに失礼しました」
「あ、いえ、えっと……」

みのりは慌てて首を振った。さっきの柔道家は見た目も口調も気さくで話しやすかったが、今度のバーテンダーはいかにもすぎて、却って緊張してしまう。

「はい、カマンベールチーズとサラミのオーブン焼きでーす」

その緊張をときほぐすように、カーテンの向こうから皿を持った男性がまた新たに出てきた。

「おっ、来た来た。さあどうぞ、奥田君渾身の『チーズとサラミのオーブン焼き』です」
「タチさん、タチさん。ちゃんと『カマンベールチーズ』って言って。その辺の適当なチーズ使ってんじゃないんだから。さあどうぞ、熱いうちに食べてみて下さい。美味いですよ」
「無理無理、タチさんは全部端折っちゃうから。お客さんにはマメなんだけどねえ」

彫りの深いバーテンダーの混ぜっ返しに柔道家が頭を掻く姿を見て、みのりもつい笑ってしまった。どうやらこのイケメンバーテンダーも、見かけよりはずっとオープンな人柄のようだ。

「駄目でしょう、初めてのお客さんにそんなことバラしちゃ。あ、すみません。僕、館元です。よろしければこちらを」

タチさんこと館元は、カウンターの上に名刺を置いた。すかさずイケメンバーテンダーも張り合うように名刺を滑らせる。

「せっかくですから僕も。稲垣です。稲垣淳三」
「ジュンイチでもジュンジでもなく、1、2、3のジュンゾウでーす」
「ジュンジは稲川!稲垣じゃないわ!」

カーテン越しの茶々に稲垣が突っ込む。バーというよりコントか何かでも観ているようだ。どうやらこの店は男性三人でやっているようだった。

「それから奥でごちゃごちゃ言ってるのが奥田です。ほんとしょうもない奴ですが、メシの腕はピカイチです。どうですか、こちらのオーブン焼きは」

みのりは皿に目を戻した。
形よくカットされたバゲットの上にカマンベールチーズとサラミ、カットされたトマトがこんもりと盛られ、程よくオーブンで焼かれた芳ばしい匂いが辺りいっぱいに漂っている。上品な皿といい、目に鮮やかなイタリアンパセリのあしらいといい、レストラン顔負けの盛りつけだった。

「もう食べましたー?どうですか、美味しいでしょう?」

相変わらずバックヤードから声だけが飛んでくる。

「こら、お客様を急かすな。あれは気になさらず。でもほんと、冷めないうちにどうぞ。フォークとか置いてありますが、よろしければ手でがぶっといっちゃって下さい、がぶっと」

みのりは館元のすすめに従って、思い切ってひとくち齧ってみた。まろやかなチーズとコクのあるサラミの風味が口の中で溢れ返る。

「ふ~、おいひい~」

思わず声にならない声がみのりの口からこぼれ、館元と稲垣が賑やかな笑い声を上げる。

「奥田君、お客様が美味しいってさ。良かったねえ」
「どーもー!自信ありましたけどー!」

今度はみのりも声を上げて笑った。

「さて、ビールのおかわりはいかがですか?それとも何か別のものにします?」

あっという間に空になったオーブン焼きの皿を下げながら館元が尋ねた。
判らなければバーテンさんに聞けばいい、という篠原の言葉を思い出したみのりは、チャンスとばかりに館元に頼んでみた。

「せっかくだから何かカクテルみたいなもの飲んでみたいんです。あんまり強いのは苦手だけど」

待ってましたとばかりに、館元がドリンクメニューを広げる。

「どんなものがお好みですか?さっぱりしてる方がいいかな、それともフルーツ系?」
「あ、フルーツ好きです。でもあんまり甘すぎない方がいいかなあ。食事もあるし」
「そうですね。ではソルティドッグなんかどうでしょう。グレープフルーツジュースを使っていますから、フルーツ系のカクテルの中ではさっぱりしている方だと思います」

ソルティドッグの名前は聞いたことがある。メニューで見るとウォッカのカテゴリに括られていた。ということはウォッカとグレープフルーツジュースという組み合わせか。考えていると横から稲垣が口を挟んだ。

「お食事の方はいかがです?バックヤードで奥田君がうずうずしてますよ」「うほーい、何でもOKっすよー!今日はトウモロコシのキッシュがおススメ!」
「キッシュ!食べます!!」

バーのフードメニューは侮れない、という篠原の言葉は正しかった。確かに下手なレストランより遥かに美味しい。何しろ目の前(カーテンの向こうだが)で作っては即提供されるのだから、どの皿も熱々の出来立てだ。
そうこうするうちに、ソルティドッグが目の前に差し出される。

「うわぁ、お洒落……」
「ウォッカとグレープフルーツジュース。グラスの縁に付いている白いものはお塩です。こうやってグラスの縁にぐるりと塩や砂糖を飾ることを『スノースタイル』と言うんです。もっとも和製英語らしいですが」

早速ひとくち啜ってみると、なるほどグレープフルーツの酸味と塩の切れ味が見事にマッチしている。

「すごく美味しいです。これって普通のお塩なんですか?」

館元はうーんと首を傾げた。

「こういうのはね、お店によってかなり違うんです。岩塩使うところもあるし、普通の食卓塩をミキサーで更に細かくするお店もあります。うちは『マルガリータ・ソルト』という、カクテル専用の塩を使っています。その名のとおり、マルガリータというカクテルを作る時によく使われる塩ですね」

横から稲垣がひょいとケースをカウンターに置いた。

「そうそう、これです。まあこの辺りはバーテンダーの好みだけど」
「スノースタイルもいろいろやり方がありましてね。こうやってグラスの縁にぐるっと一回りつけるやり方が一般的ですが、中には『それは正しくない!』と言う人もいる。まあそれぞれの考え方があります。でも蘊蓄語り始めたらキリがないですから」

稲垣の言葉に館元もうんうんと頷いた。

「僕らプロ同士がしゃべる時はね、それなりにこだわりもあるし議論を闘わせもします。それが仕事ですから。でもお客さんはね、そんな細かいことどうだっていいんです。特にまだ慣れていらっしゃらない方は尚更。そんなうるさいこと言われると、バーに来るのが嫌になっちゃうでしょ?『知らないと馬鹿にされるんじゃないか』みたいな」

思わずぶんぶんと頷くみのりに、稲垣がひょいひょいと手を振る。

「ないない、全然ないです。少なくともウチはそういう真似はしません。知らなくて当たり前、どんどん聞いてもらえばいいんです。極端な話、知らなくたって別にいいんですよ。美味しきゃ万事OKです」
「だよなー。別にどうしてソルティドッグなんて名前がつくか、とかさあ。知ってりゃ知ってるで面白くはあるけど、だからと言って酒の美味さが変わるわけじゃないからなあ」
「いえ、聞きたいですけど」

間髪入れずに答えるみのりの反応に、館元があれ?という顔をする。

「ソルティドッグは元々イギリスが発祥で、あっちのスラングで船の甲板員を指す言葉なんだそうです。まあ年がら年中、船の上で塩まみれになって這いつくばらなきゃいけない仕事ですからね。そのイメージで作られたんですが、当初はジンベースだったそうです。でもあんまり人気がなくて、そいつがアメリカに渡ってウォッカベースになり、かつスノースタイルで作られるようになってから世界的に有名になったという経緯があります。はい、蘊蓄終わり」

稲垣がおしまい、と両手を広げると、館元がふざけて拍手をする。

「ま、要するに美味しく飲めればいいと。そういうことです」
「メシも!メシも忘れないでー!美味しく食べて下さいよー!次何にしますかー!」

バックヤードから飛び込んできた奥田の剽軽な声に、みのりたちは一斉に声を上げて笑ったのだった。

みのりの初めてのバー体験は、想像以上に楽しかった。来てみるまではかなり緊張していたのだが、気さくなバーテンダーたちとの会話や美味しい酒と料理が、あっという間にその緊張を解きほぐしてくれた。それにしても篠原の店の選択は、非常に的確であったとしか言いようがない。

「ところで今日はまたどうしてお一人で?旦那さんは飲まない人?」

指輪をしているから、既婚者というのは言わなくても判るのだろう。みのりは食後のデザートにと勧められたアフォガートを口に運びながら、苦笑いを浮かべた。飲まない人どころか、今日もしっかり同僚と飲みに行っている。

「いえ、彼もお酒は大好きです。て言うか、私よりもずっと強いし、よく飲みます。実際、今日も飲み会なんで」
「へえ。それで置いてきぼりかあ。それもちょっとひどいねえ。まあたまになら仕方ないけどさあ」

すっかりくだけた口調に変わった館元が自分のグラスを傾けながら相槌を打つ。館元も稲垣も自分のために酒を作り、話をしながらちびちびと口に含むことに、みのりは少なからず驚いた。だがバーでは別に普通のことなのだろう。酒を飲むのも仕事のうち、というところか。

「それなら一緒に来ればいいでしょう。お酒飲む人だったら、尚更ですよ」

稲垣の勧めにみのりは困ったように首を傾けた。

「あれ、駄目?こういうとこ、苦手な人?」
「うーん、お店が苦手なんじゃなくて、私と飲むのが駄目みたいです」

何でー!?とバーテンダーが二人揃って声を上げた。

「付き合ってる頃からよく言われたんですけど、私があんまり飲めないから、一緒に飲んでても楽しくないって。あれこれ気を遣ってると、自分が美味しく飲めないんだそうです。まあそれも一理あるとは思うんですけど」
「うーん、でもなあ。確かに俺らも酒飲みではあるし、強くない人がいればそれなりに気も遣うけど、またそれは別の話だよなあ」
「だねえ。そういう時はそういう時で、別の飲み方するかなあ。それこそ会話を楽しむとか、いい酒をゆっくり飲むとかね。それはそれで美味しいものですよ」

二人の男性が首をひねっている姿に、みのりは思わず微笑んだ。

「――だから私もちょっとは勉強して、もう少しお酒飲めるようになりたいなって。それにどうせ練習するなら、今までみたいな居酒屋でビールかハイボール、ってだけじゃなくて、カクテルとかワインとかにも挑戦してみたいなって思うんです」
「偉い!その前向きな姿勢、素晴らしい!」

館元が拍手をした。稲垣もうんうんと頷く。

「でも今日来てみて、ほんとに良かった。こういうお店だったら安心して来られるし、いろいろ教えてもらえそうだから。お酒もお料理もほんとに美味しくて。また来てもいいですか?たぶん一人だと思うけど」
「いいよー!来てよー!今度は僕がお酒も作るからー!」

突然カーテンを揺らして奥田が顔を出した。

「おまえ何アピールしてんだ。おまえはメシ担当!」
「お一人、もちろん結構です。女性同士でいらしてもいいですしね。どんなふうにでも使って下さい。早いお時間でしたら比較的空いてますから」

女性同士と言われ、みのりは自然に篠原のことを思い浮かべた。よほど篠原の紹介だと言おうかと思ったが、ひとまずは止めておく。特に変な真似はしていないとは思うが、万が一篠原に迷惑がかかっては申し訳ないと思ったのだ。

――いつかもう少し飲めるようになったら、その時は自分から篠原さんを誘ってみよう。できれば陣野さんも一緒に。

篠原と陣野、そしてここの気さくなバーテンダー三人組の駆け合いがあったら、さぞ賑やかなことだろう。そんな想像をして笑みを漏らしたみのりは、すっかり氷のとけたソルティドッグの最後のひとくちを、名残惜し気に飲み干した。

第一章 始まりのジントニック 陣野雅之
第二章 挑戦のソルティドッグ 鹿島みのり
第三章 大人へのモスコミュール 篠原那奈
第四章 始まりのジントニック・再び 篠原怜子

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