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別の人と心交わすことについて

この世界で生きてゆくということは、
人と人と、関わり合って生きてゆく、
ということでもあるのだと思います。

以前の記事でも書いたとおり、
私は人がこわいです。

人がこわい、というより、
人と関わるのがこわい。

人と話したり、
人と何か作業をしたり、
一緒に働いたり。

そういうことがこわいです。

記事には、「人が好き でもこわい」とお話ししました。
人が好き、人をもっと知りたい、深く話し合いたい、という欲望がありつつも、
身体と心が思いきり、人と関わることを恐れ、
避けよう、避けよう、という行動傾向がある。

ひとつは、
人、他人のことを、「味方」と思えない、という意識があるかもしれません。

その人が好きだし、興味はあっても、
「自分の味方」とは感じられないんです。

「味方」という言葉の反対は「敵」だけど、
私にとって他人は「敵」というわけでもない気がする。

「自分を攻撃してくる」とかのこわさではないんですね。

たぶん、他人、
自分の体外のもう1人の人物が、
自分にとって異質な存在感で、
(他人は自分ではないので当たり前ですが)
まったく違う存在、
自分とは違うことを考えていて、
自分とは違う世界観を生きていて。

その異質な存在感を前にして、
その人と言葉を交わし、交流し交わることが、なぜだかすごくすごくこわい。

「異質な他人に、異質な自分は受け入れてもらえないだろう。」
という、恐怖心が芽生えてしまいます。

「友達は、人々は、それぞれ違うことを考えている。」
友達と会った日など、そんな当たり前の事実を感じます。

それが、楽しい、面白いなぁと思える日もあれば、
少しこわい、さみしい、と感じてしまう日もある。
(その日の気分や体調にもよります。)

不登校になってから、1人で過ごす時間が通常の学生より多く、
ガラパゴス的に成長してしまったので、
その過程、自分範囲に城をつくり、
自分の周りにはたくさんの城壁を築いてきてしまったのかもしれない。

私がきっと無意識下で人との間に壁を作るから、
当然、他人もその壁を無意識下で感じ取り(察し)、
なかなかそこにお近づきのコミュニケーションは生まれません。

「自分を受け入れて欲しい」
「人と人と解り合いたい」

その気持ちもたしかにあるのだから、
それが美しすぎる理想であるとしても、
心のどこかで大切にあたためておきたいです。

ぐるぐると悩みは尽きないけれど、
いつか、さみしい気持ちを誰かと分け合える日が来た時のために。

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