一様ではない、人の気持ちの複雑さ
これまで気軽に会っていた知人や友人とも簡単には会えない状況が、長らく続いている。
自粛生活で自宅にいることが多くなると、一人暮らしの人間は、孤立感が強くなる。
一方で同居する人がいればいたで、これまでとは違った距離感に手惑いを感じたりする人も多いであろう。
在宅勤務が思ったよりも広がらなかったり、自粛生活という要望に応えない人達が多くいたりするのは、こうしたことが影響しているのかもしれない。
一方で、オンラインの交流で相手との距離ができたことで、直接顔を合わせることなくやり取りができるということで心理的に楽になったという人たちもいる。
また、子供や家族と触れ合う時間も増えて喜んでいる人達もいる。
このような状況を見ていると人間関係は大事であるというのは、誰にとっても変わりはないだろうが、人それぞれで何が良いかは、悪いかは、人によって随分違ってくる。
同じ状況に遭遇しても人によって感じ方、受け止め方も様々であり、そこには大人も子供ない。
それはある種、当たり前のことである。
感じ方、認識の仕方には全て個別性があり、一律には判断できない複雑性がある。
然しながら、一方で、私の悲しみに対して「子供ではないのに可笑しい」という言。
そしてそれに反論するとその人は「私はあなたを心配している」のにという言。
私には、全く心配してくれているとは、思えないのであるが。
ただ、一方的に自分の都合でメールや電話をよこし、様子伺いと世間話等に時間を費やす。
私のために何か行動してくれるわけでもなく、一体、世の中の常識でも、これを心配しているといえるのだろうか。
本人の内にあるのは、メールをする、電話をすることが、心配しているということなのであろうが。
全く納得できないので、この話をあるケアの専門家にしたら、彼は笑いながら、こう言ったのである。
「それは、あなたにとっては、大変迷惑な話であり、もっと言えば危険なんですよね。
心配を愛だと思ってる人は、かなり多いけど、正直、なんか違う気がする。
実際、それに疑問や違和感を感じている人も、実は、結構大勢いるんですよ。」と。
例えば、私の場合でいえばとその専門家は続けた。
「私の母親はもうかなりの高齢ですが、今でも僕のことを心配してきます。
昔からずっと、僕のことを心配しています。
しかし、私は、親に心配されて、それを「有難い」と感じたことは一度もありませんし、親に心配されて、それが僕の力になったことも一度もありません。
むしろ反対に、親に心配される度、心の中から生きる力が抜けていく感じさえしていました。
従って、親から僕を心配する態度を見せられる度、僕はいつも、ウザい、鬱陶しい、という「不快感」を感じていました。
僕を心配して、「親をやってるつもり」になられることに、「もういい加減にしてくれよ!」と、怒りを抱いたりする時もありました。
それが「心配」に対して僕が正直に感じていたことです。
結局、「安心したのは誰なんですか?」ってことです。
心配することで「安心し満足した」のは、心配された側の私ではなく、「心配した側」の人間なんですよ。」
今、新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中が悲しみにあふれる今、悲しみを通じてこそ得られる経験の次元を大切にする「グリーフ・ケア」への注目が高まっている。
私も、3年4ケ月前に、自動車事故で長年、連れ添った妻を亡くしたことから、大切な人の喪失等、かけがえのない人やモノ等を喪って悲しみにある人に心を寄せるグリーフケアを学び始めた。
また、グリーフケアを通して、単なる自分の悲しみだけではなく、様々な人たちの悲しみを知った。
悲しみの共通の水脈の広がりに気づかされた瞬間、自分の悲しみは生きる力に向かっていったように思う。
自分の悲しみだけではなく、人が苦しむ姿に寄り添い、耳を傾けることで。
ケアされる時、本当の自己があらわれる、本当の自分がそこにいることができる、そこに居場所がある。
そして、依存できている時に本当の自分があらわれ、それがはく奪されると偽りの自分があらわれる。
ケアとは何か、ケアとは傷つけないことと。
別の言葉で言えば、相手のニーズを満たすこと。
依存を引き受けること。
いってみれば、面倒くさいことを肩代わりしてあげること。
日々、ともに生きてきた人との死別は、大きな衝撃となって残された人を襲う。
心に生じた大きな空白に自らが、体ごと吸い込まれるように感じる人たちもいる。
ある程度、人生を送ってからの配偶者との死別は、悲嘆と向き合うのは、たやすいものでは決してない。
そういう意味でも、死別を経験し、悲しみに陥り、突然不慣れな環境におしこまれた時に、じっくりと繰り言を傾聴してくれる人、さりげなく寄りそうサポート・ケアは、大変心強い。
サポートにより、自ら進むべき道を確認するきっかけになるにもなりうる。
そういう意味で、全てのことに個別性があり、人によって受け止め方、感じ方も様々であり、一律に、自分の価値観やスタンダードを振りかざしても何らの意味がないということであろう。
相手が、必要としているものを、その場で提供する事。
そういう意味では、グリーフ・ケアのみならず、親子間でも、夫婦間でも、会社組織における上司、部下間においても、複雑な人間の気持ちや心情に的確な対応するためにも、日常的に、ケアという姿勢や態度で相手に接するというのが、相互理解のためにも、必要不可欠といえるのではないだろうか。
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