200307_デザインという営み.001

デザインという営みの本質を探る 2

デザインという営みの本質を探る 1

あれほどデザインについてあれこれ考えたのにも関わらず、図らずも例の如く「デザインとはなんだろう?」という問答を重ねている。このままひたすらに探索を続けた先には、明確な答えはあるのだろうか?もしもそんなものが、突如として眼前に姿を現したとしたら、私は一体何を感じるのだろうか。

ブラックボックスの再構築

数週間前に最近CMUを卒業したカナダ人の元同僚と話す機会があった。彼のAppleでの夏季インターンシップの体験談、彼が現在研究を進めている新しいクリエイティブプログラミングのオーサリング環境についての話、私自身の日本に帰国してからデザインという営みに向き合って考えてきたことなんかをMacbookを開いて、カフェで6時間近く話し込んだ。

Macbookのスクリーンに写っていたものたちも紙ナプキンとペンを持ってスラスラを書いてみては、話ながら思い浮かんだことをお互いに付け足していたそれも、DDOでいつも見ていた「モデル」だった。

ふと、私がちょうど年末に書き始めた「デザインという営みの本質を探る」という記事の話になって、Richard Buchananの "Wicked Problems in Design Thinking"に対する私の解釈をまとめたモデルについての話になった。私自身全く気が付いていなかったのだが、彼によると——しかも、ぐうの音も出ない程妥当な指摘として——10の連続するあのモデルの一番初めと一番最後は、全く同じことを表現しているらしい。つまり、

200228_デザインという営み.002


200228_デザインという営み.003

が、実は全く同じものだというのである。もう少し丁寧に言い換えると、思考に文脈や方向性を与える「フレーム」をもって、デザインという営みから生み出される「新たな概念(A new concept)」は、一番初めのモデルに登場する「ある概念(A concept)」なのだ。

「新たな概念(A new concept)」が「ある概念(A concept)」としてブラックボックス的に再構築がなされる瞬間は、その概念が生み出された対話の過程や文脈を全く知るよしもない任意の大多数と出会った時に起こるのかもしれない。デザインという営みを通して形成された「新たな概念(A new concept)」を部分的に切り取り、端的な名前で覆いかぶせることにより、その解釈が即時的かつ指数関数的に共有される。この過程の中で、ブラックボックスもその濃度を一層濃いものにしていく。この科学反応的な現象は、ユーザー起点のイノベーションを引き起こすかもしれないし、終わりのないセマンティックドリフトを開始させてしまうかもしれない [1]。

いずれにしてもこの一連の流れは、明らかに循環しているように思う。もう少し大きな視点から、この循環の仕組みを捉え直す必要があるだろう。複数の概念から新しい概念が生み出され、またブラックボックスが再構築される流れの全体像を掴むことで、デザインという営みの全景のようなものが見えてくるかもしれない。そのために、Buchananの論文をもう少し丁寧に読み解いていく。

カテゴリーとフレーム

200314_デザインという営み.005

カテゴリーとは、確立された「枠」を持つ専門性のことを意味し、デザインにおいては、グラフィックデザインや工業デザインという専門分野のことをいう。

フレーム(Placement)とは、Buchananによればデザイナーが取り組む文脈において思考の方向性を指し示したり、 関係性の最も深い分野の知識を集合させたり(the principle of relevance)、デザインという営みが最終的に生み出す形を意識の中で構築するために使用する思考ツールのことをいう 。カテゴリーと同様に「枠」を設けるものの、フレームにおいては考えるための足場を形作るため程度の強度しかもたない [2]。

デザイン史、理論、批評とデザイン思考

200314_デザインという営み.006

Buchananの論文は、経営学、組織論、人工知能、心理学、システム科学、言語学、経済学などの様々な分野でよく引用されるHerbert A. Simonの「システムの科学(1968)」の「デザインの科学 (Science of the Artificial)」という言葉の真意に対する解釈から始まる。Simonの書籍には、実際に「デザインの科学:人工物の創造」という章が存在し、人間の認知的な特性を捉えた心理学、人工物を含む社会学、複雑系を取り扱うシステム科学などの側面からデザインという営みに関する考察やシミュレーション、形式化がなされている [3]。

若干の脱線をしてしまうが、本書で提唱されているアプローチには、直接的な引用関係は発見できなかったもののChristopher Alexanderの「Notes on the Synthesis of Form (1964)」とその自然科学的・分析的な指向性と記号操作的なデザインへの取り組みが非常に似ている印象を受けた。何れにしても、デザインという営みの構造をより詳細に言語化するために、BuchananがSimonのデザインに対する解釈を論文の主要な問題提起に活用したことには個人的に納得がいく。

Buchananは、先に述べたカテゴリーとフレームの差異を明示化したのちに、デザイン史、理論、批評とデザイン思考がどのように異なるかを解説した。前者は、既に実在し形のある人工物(=概念)を対象とし、それを分析・分解してうえで新たなカテゴリーや理解を形成する。後者は、まだ存在しない新たな人工物を生み出さんとして創造的・実験的にフレームを活用する [2]。

人工物を様々な学問・歴史的な立場から分析しようとするアプローチは、どちらかと言えば、自然科学の現象から法則を見出そうとする帰納法的(Inductive)なアプローチに近いと言えるだろう。そして、このアプローチが実践に持ち込まれる際には、確立された「法則」や「ロジック」を演繹的(Deductive)に活用する。ここにデザインが、それ自体で独立した分野としては認識されずに、しばしば「応用科学(Applied science)」などとして、何かの分野の派生と捉えられてきた歴史の理由がある。例えば、売り上げにつながる申し込みが主要なKPIとして掲げられているウェブサイトがあるとする。このウェブサイトのコンバージョンを上げるために、行動経済学における様々な理論を活用するとする。多くの人は、このようなことを「デザイン」と呼ぶ。何かの分野の派生の「応用の技術」としてのデザインとは、こういうことだ。

一方で、デザイン思考は、まだ存在しない人工物を発想的(Abductive)に推論して生み出すために、フレームによって導かれた方向性・関連性の深い複数分野から様々な知識を単純に当てはめるのではなく、統合するアプローチを採用する。

デザイン過程とデザイン思考

200307_デザインという営み.007

ここでSimonの「システムの科学」におけるデザインという営みに対する解釈はどのようなものだったのかを見てみたい。

現在の状態をより好ましいものに変えるべく行為の道筋を考案するものは、誰でもデザイン活動をしている。物的な人工物を作り出す知的活動は、基本的には、病人のために薬剤を処方する活動や、会社のため新規の販売計画を立案し、あるいは国家のために社会の福祉政策を立案する活動となんら異なることはない。このように考えると、デザインは、全ての専門教育の核心をなすものであり、またそれは専門的知識を科学的知識と区別する主要な標識をなすものである。工学諸学部は、建築、経営、教育、法律および医学などの各学部と同様、すべてデザイン過程に中心的なかかわりあいをもっている[3]。

彼のデザインという営みに関する解釈には、どことなくBauhaus創設者であるWalter Gropiusらと初期のBauhausを牽引した写真家、画家、タイポグラファー、美術教育者のLászló Moholy-Nagyが「Vision in Motion (1947)」の中で言った

 "Design is not a profession but an attitude."
デザインとは、専門的な職業ではなく、姿勢である [4]。

と類似する考え方を見ることができる。つまり、デザインという営みそのものは、専門職的なデザイナーだけが持つ特定のスキル(ビジュアルデザインなど)をさすのではなく、人間と彼らが生み出す人工物とそれらを内包する環境との関わり合いの中で観察することができる「姿勢」や「在り方」のことを意図しているように解釈できる。

一方で、Simonはデザインに関する知識を専門的と呼び、自然科学の知識を客観的・科学的と呼び、差別化をしているように見受けられる。具体的には、デザイン過程そのものを専門的知識と言っているように思える。そして、この専門的知識は「工学諸学部」と中心的な関わりがあると言っている。私は工学について詳しくないが、Wikipediaでは以下のように説明されている。

工学とは、 エネルギーや自然の利用を通じて便宜を得る技術一般。数学と自然科学を基礎とし、ときには人文科学・社会科学の知見を用いて、公共の安全、健康、福祉のために有用な事物や快適な環境を構築することを目的とする学問。ブリコラージュを含む、現実に問題を解決する方法の体系 [5]。

彼は、専門的知識(=工学)を基礎としたデザイン過程を教育するためのプログラムとして、必要な要素を体系的にまとめている。その要約について少し見てみたい。

デザインの評価
1. 評価理論:効用理論、統計的決定理論
2. 計算方法:
a. リニア・プログラミング、制御理論、ダイナミック・プログラミングなどの最適代替案選択のアルゴリズム
b. 満足代替案選択のためのアルゴリズムと発見的方法(ヒューリスティックス)
3. デザインの形式論理:命令論理と叙述論理

代替案の探索
4. 発見的探求:要素分解と目的—手段分析
5. 探索のための資源分配
6. 構造の理論およびデザイン組織化の理論:階層システム
7. デザイン問題の表現
[3]

私は、プログラマーでもエンジニアでもないため、読みながらいくつか理解の及ばない部分もあった。しかしながら、全体のデザイン過程に関する解釈として、私たちが業務で実践している「人間工学 — インタラクティブシステムの人間中心設計(ISO 9241-210)」のプロセスと大きくは違わないような気がした。

特に、「代替策の探索」の項目に含まれる4~5に関していえば、言葉の表現は違うものの普段私たちが、「デザイン思考」と呼び、The British Design Councilのダブルダイアモンドモデルを引用して、「発散(Divergence)」と「収束(Convergence)」と声を大きくして説明している部分と重なる箇所が多くあるのではないだろうか?さらに、同項の6~7に関しては、オブジェクト指向的な知識表現(=モデリング)に関連する内容を指しており、個人的には、Simonのデザイン過程に関して大きな異論はない。

しかし、Buchananは、Simonが提唱するデザイン過程に対して欠落している点を以下のように指摘している。

"...he does not capture the radical sense in which designers explore the essence of what the artificial may be in human experience. This is the synthetic activity related to indeterminacy, not an activity of making what is undetermined in natural laws more determinate in artifacts. In short, Simon appears to have conflated two sciences of the artificial: an inventive science of design thinking which has no subject matter aside from what the designer conceives it to be, and a science of existing humanmade products whose nature Simon happens to believe is a manipulation of material and behavioral laws of nature. [2]"

...彼は、デザイナーが人間の体験において何が人工物であるかという本質を探求するという過激な感覚を捉えていない。これは不確定性に関連する統合的な営みであり、人工物で自然法則において劣決定であるものをより明確化する営みではない。つまり、Simonは二つの異なる人工物の科学について混同していたように思われる。デザイナーが考えていること以外には主題を持たない独創的なデザイン思考の科学と、その性質がSimonが自然の物質と行動の法則の操作であると信じている既存の人工物の科学。

ここから見えてくるのは、Simonは既存の人工物を分析的に取り扱うデザイン史、理論、批評と、未来に存在する人工物を統合するデザイン思考の異なるデザイン科学における差分は認識していた。しかしながら、それぞれの異なる探求の対象に対して、前者のデザイン過程のみを持ち込み、デザインという営みを劣決定の状態のものを、工学的に数学や自然の法則を操作し、より正確に決定することとしてしまっているということかもしれない。

言い換えれば、Simonが捉えるデザインという営みは、徹底的な合理・機能主義、要素還元的な分析的思考、科学的・工学的な態度といったModernismとDesign Scienceの思想のすべてが体現されているということだろう。

機械論的自然観とデザイン思考

200307_デザインという営み.008

長坂一郎の「クリストファー・アレグザンダーの思考の軌跡 — デザイン行為の意味を問う(2015)」の中に、BuchananがSimonのデザイン過程に対して欠落していると指摘した対象が明らかにされていると思っている。

これは、Christopher Alexander自身が『パタン・ランゲージ(1977)』で失敗した原因の根幹として認めた部分でもあり、今でもBauhausやModernimの在り方をデザインという営みの頂点として崇拝する私たち現代人の基本的な世界の見方だと言えるかもしれない。その対象とは、合理主義哲学の祖であるデカルトにはじまる機械論的自然観という [6]。

機械論的自然観について、長坂一郎は哲学者ロックの言葉を借りながら以下のように説明する。

すると、自然には二種類の性質があることになる。一つは大きさや長さ、重さなどの客観的な事実につながるような認識を生み出す性質であり、もう一つは「赤さ」や「暖かさ」など人の感覚から生じる性質である。これらを十七世紀末のロックという哲学者は、それぞれ「第一次性質」と「第二次性質」と呼んだ。実際、波長は客観的なものだけれども「赤さ」は主観的なものだと多くの人は考えるだろう。しかし、このように自然についての性質を二つに分けて考えることが、自然を一種の機械のようなものとしてとらえる機械論的自然観に私たちを導くことになる。自然は客観的である第一次性質のみによって構成される体系であり、「これらの関係の秩序正しさが自然の秩序を構成」(ホワイトヘッド)し、その秩序に従って機械的に動作していくものと考えるようになるからだ。その結果「赤さ」や「暖かさ」はその体系から締め出され、自然は無味乾燥なものであり、それを眺める人間が、それに第二次性質を後から付け加え、それを美しいとか好ましいなどと主観的に価値づけをしていると考える。だから、「価値基準というものは個人的なもの」であり、「論争と妥協によってのみ調整可能なもの」とされるのである。一方、形のほうは第一次性質によって構成されているから、誰とでも共有できる客観的なものとなる。こうして、価値と形はそれぞれ主観的なものと客観的なものというまったく異なるカテゴリーに属するものとして、完全に分離されてしまうのである [6]。

私自身もこの世界観に強烈に毒されているかもしれない。何故ならば、私がデザインと本当に初めて出会ったと感じたのは、デザインの歴史の中でModernismを発見したときだからだ。そして、なんども繰り返しているが、Modernismも機械論的自然観を体現している。私は、「言葉として表現可能で、科学的、客観的、論理的、工学的にデザインをすることができる」というこの圧倒的な魅力に取り憑かれてしまっている。そしてこの魅力を、自分自身のデザインという営みにおける中心的な指針として据えることで、価値(=主観)と形(=客観)をそれぞれ全く別のものとして二分してきた。

Alexanderは、人々の魂は多少の差異はあれど皆類似しており、形として体現された時、それは「神」や「宇宙」といった絶対的な価値基準の中にあるとし、この第二次性質にも客観性を持たせようと試みた。また、そうすることで彼は価値と形を二分したこの機械論的自然観を脱却しようとした [6]。彼自身のこの脱却方法は、正直なところ全面的には共感していない。単純に「神」とか「宇宙」といった存在がピンと来ないからだ。しかしながら、この価値と形の再統合という取り組みにこそおそらくBuchananがデザイン思考と呼んだ活動の、上手く言語化できない質が隠れている気がしている。

「厄介な」デザインの対象とデザイン思考

200314_デザインという営み.009

デザインという営みが取り扱う内容は、「厄介である(Wicked )」または「不確定である(Indeterminate)」とされている。この「厄介な問題(Wicked Problems)」の特徴を捉えた10のリストは、デザイン理論家のHorst RittelとMelvin M. Webberの"Dilemmas in a General Theory of Planning (1972)"で列挙されている。Buchananは、デザインという営みが取り扱うこの厄介さ(Wicked)または不確定さ(Indeterminate)は、劣決定(Underdeterminate)ということとは異なっていると言う [2]。

厄介または不確定であるとは、ある事柄・現象・問題に対して複数のそれなりの正当性をもつ見方・定義・概念が同時に存在している不確定な状態のことを指す [7]。まさに、「デザイン」という概念そのものが、厄介な問題の代表的な例として挙げることができるだろう。

一方、劣決定であるとは、理論や概念の正当性を確定するのに十分な根拠が存在してない状態のことを指す [8]。自然現象に対する分析や実験は、この劣決定の状態をより明らかにするための活動であり、「システムの科学」におけるSimonと、『パタン・ランゲージ』あたりまでのAlexanderが主として採用したアプローチであると言える。

厄介さは、大きく二つの要素が原因となっており、この概念が提唱された当時よりも現代の方がさらに深刻になっているように思われる。まず原因の一つ目は、私たち人類の知識の増大とそれに伴う「専門」と呼ばれる分野の枠組み(=カテゴリー)の揺らぎにある。Simonは、「社会計画:進化する人工物のデザイン」の章の中で以下のようにその現象を説明している。

しかし知識が増大するにつれ専門家の役割にも問題が生じてきた。技術の進歩によって各専門家はいままでよりいっそう大きな影響力をもつようになると同時に、彼ら自身もまた自分たちの計画したことの結果が遠く及ぶことをいっそうはっきりと意識するようになってきたのである [3]。

これは、人類の科学が進歩すれば、先ほどあげた「劣決定」である理論や概念が少なくなっていくこと、結果的に全体的な科学知識の総量が増えていくことと関連づいている。さらに、印刷技術やコンピューティングメディウムの登場により、元々物理性を持たない情報(=知識)を即時的に共有できるようになってことで、おそらく私たちは歴史的にみても一人一人の持つ知識量が圧倒的に増加している。

二つ目の原因は、そもそもデザインという営みが取り扱う対象がふわふわしていることにある。前回の記事でも取り上げたが、別の引用でBuchananの説明をみてみたい。

"Design problems are "indeterminate" and "wicked" because design has no special subject matter of its own apart from what a designer conceives it to be. The subject matter of design is potentially universal in scope, because design thinking may be applied to any area of human experience.[2] "

デザイン問題は、"不確定"であり、"厄介"である。何故ならば、デザインは、デザイナーが想像していること以外に特定の対象を持っていないからだ。デザイン思考が人間体験のどの範囲にも応用することが可能であるので、デザインの対象は潜在的にあらゆる場面において普遍性がある。

つまり、より膨大な知識を蓄積している多様な人々が特定の文脈の中で、まだそこには存在しない何かを生み出そうとしてデザインという営みに向き合う時、彼らがそれぞれの視点から捉えているその対象はおそらく驚くほどに複雑に絡み合っているはずだ。

この厄介なデザイン問題を、前進させるためには私たちが求める「ゴール」または「価値」について対話しなければならない [9]。そうすることで、厄介さに対してデザイン思考のフレームを設置することが可能になる。よくよく考えてみるとフレームとは、その文脈でデザインという営みに取り組む人々がそれぞれに暗黙知的に抱えている言葉を少しずつ紡ぎ合わせてできた空間のことを言っているのかもしれない。そしてそこには、価値と形が一つになった美しい人工物が現われるかもしれない。

対話とデザイン思考

200307_デザインという営み.010

私は、デザインを始めてからデザインという営みが生み出す形がより良くなるためには「対話」をすること大切だとずっと思ってきた。半分以上は、Hugh Dubberlyの受け売りである [10]。私は、方法論も勿論大切だと思う一方で、私たちが生み出す価値と形が統合されているかどうかは、そこにどんな意味を見いだすことができるかどうかではないかとも思っている。なぜならば、そのような形は、私たちと出会う時に「なぜ(Why)」その形が存在するのかをそれを生み出す側にも道具的に利用する人にも思考するきっかけをくれるからだ。美しい人工物は、それを生み出す時も使う時も、私たち一人一人に個別の「道具的意味連関 [11]」を見立てることを許容してくれる。

先日参加してきたObject-Oriented Conferenceで、@kawakawaさんのセッションを拝聴してきた。「オブジェクト指向の『語る』と『示す』」というテーマで、目が覚めるような内容だった。プログラマーやエンジニアに向けた話ではあったが、人工物を作ることに携わる人であれば誰にとっても意味のある内容だと思った。特に「ドメインモデル(=自分が想像している世界)」と「暗黙知(Tacit knowledge)」の関連性に言及されていた箇所に関しては、何度も復唱して暗記したいくらいである。Buchananのいうデザイン思考においても、この関係性を無視することはできないと思う。@kawakawaさんの話の中から一文だけ拝借したい。

語ることはできないが、理解していること
これが暗黙知と呼ばれるものになります [12]。

私は「暗黙知」は、未だ形を与えられていない価値であると思っている。そして形がないからこそ「厄介な」または「不確定な」状態に陥っていると考えている。価値は、確かにそこに存在するにも関わらず、まだ五感をもって直接体験することはできない状態にあるのだ。

だだ一つそれを可能にするものがある。それは、ある文脈に合わせてフレームを特定し、そこに在る複数の暗黙知という価値に少しずつ具体的な形を与えていくデザイナーたちの審議と対話である。そして、これこそがBuchananのいうデザイン思考であると言えるだろう [2]。私は、この現象を最も的確に表現した文章を知っている。それは、Alexanderの「A Pattern Language (1997)」の中にある。

"In a poem, the meaning is far more dense. Each word carries several meanings, and the sentence as a whole carries an enormous density of interlocking meanings, which together illuminate the whole. [13]" 

詩では、その意味ははるかに密である。それぞれの言葉には複数の意味があり、その文には全体としてとてつもない密度の絡み合う意味があり、それが一体となって全体を際立たせている。

私たちデザイナーは、暗黙知を見つけては、全く新しい人工物(価値+形)を見立てられるかもしれないとワクワクする。そこにどんな形を与えることができるについて対話を重ねている。永遠に終わることのない論争を招く火種にさえも自らも飛び込んでいく。今日の自分は昨日の自分とは別人であり、個人の中でも対話が発生する。さらに生み出す側だけではなく、使う側の人々を巻き込んだ対話とデザイン思考は、その活動をより生き生きとさせ、様々な価値が重ね合わさる。終わりがあるなんてことはありえない。「より良くするためには?(What is better?)」という問いが、デザイナーたちを鼓舞し、価値の形を推敲することやめさせない。デザインという営みは、とんでもなく刺激的な活動だ。

学習とデザイン思考

200307_デザインという営み.011

暗黙知という価値に形を与えることで生み出される人工物とは、一体何だと言えるだろうか?個人的には、形は、言葉であることも、モデルであることも、ソフトウェアであることも、ハードウェアであることも、建築であることも、組織であることも、文化であることも、世界であることもあると考えている。表現形式そのものは、さほど重要ではない。おそらく暗黙知であるものが「形式知(Explicit knowledge)」として、五感を通して触れることができることこそが大切なのではないかと思っている。私は、対話とデザイン思考を通じて生み出される人工物は様々な形をした「形式知」であると信じるのに十分な論説をこれまで見てきたつもりだ。

Hugh Dubberlyは、"How do models 'work' in design & research? A model of modeling. (2011)"で、野中郁次郎の「SECIモデル」を使いながら暗黙知から形式知へと移行する流れ説明し、この流れのことを「学習」と呼んだ。そして、デザイン活動もまたある種の学習プロセスであるとした。彼は、この類似性が単なる偶然ではないことを、近代・現代に登場する様々な分野の理論家・実践家・歴史家が作り出したそのデザインプロセスや学習サイクルのモデルを紹介することで提案している。これらのモデルは、一般的に「架け橋モデル(Bridge model)」と呼ばれている。以下は、そのリストである [14]。

0. Analysis-Synthesis Bridge Model
Dubberly, Evenson & Robinson (2008)

1. Robinson Model
Rick Robinson (2005)

2. Design Research Process 
Rick Robinson & John Cain, E-Lab (1993)

3. Beer Model
Stafford Beer (1966)

4. Alexander Model 
Christopher Alexander (1964)

5. Kumar Model
Vijay Kumar (2003)

6. Kaiser -IDEO Model 
Kaiser Innovation Center + IDEO (2004)

7. Suri-IDEO Model 
Jane Fulton Suri (2006)

8. Verplank's Spiral 
Bill Verplank (2000)

9. The Jump Explore Process
Colleen Murphy, Jump Associates (2009) 

10. Differentiation Model
Joanne Mendel (2010) 

11. Design Process 
Sara Beckman (2010) 

SECI model of knowledge creation 
Ikujiro Nonaka (1995)

12. Experimental Learning
David Kolb (1975)

13. Learning Styles 
M. Tennant (1997)

14. Experimental Learning Cycle
McCaffery (1986)

一度は、名前を見聞きしたことのあるモデルが羅列されているのではないだろうか?もしくは、デザインを説明するにあたって、自分自身でホワイトボードに書いたことがあるのではないだろうか?

これらのモデルは、暗黙知から形式知が生み出される流れに着目しているため、その流れが発生する文脈や人々や価値については省略されている。しかしながら、今の私はそれらの省略されている事実に関しても、これまでもよりもほんの少しだけ詳しく把握することができている。

私たちは、一度価値に形を与えるだけでは終わらない。私たち人間は、常に学習を続けている。私たちと、私たちが生み出す人工物と、それらを内包する環境とに対して、より良い関係性を見い出すために前進を続けている。そして、そのことはSimonも的確に捉えている。

デザイン目的に関する、矛盾しているようにみえるがしかしおそらく現実的ともいえる見解は、その目的の果たす役割が活動を動機づけるところにあるが、そのことがさらに将来新しい目的をつくりだすというものである。<中略>実施の各段階ごとに新しい状況がつくられ、その新しい状況がまた新鮮なデザイン活動のための出発点となるからである [3]。

もう1つ、パーソナルコンピューターの父と言われるAlay Kayの言葉を引用してみる。

"It means that even though humans are animal that shape tools, it is in the nature of the tools and man that learning to use tools reshape us. [15]"

つまり、人間は道具を作る動物であるが、道具を扱うことを学習することで私たち自身を作り変えることは、道具と人間の本質である。

このようにして、私たちは、まだ形を与えられていない価値から人工物を生み出し、私たち自身の本質をも変化させる。そして再び新たな人工物を生み出す循環の出発点に立ち返る。デザインという営みこそが、私たち人間と環境世界との基本的な関わり方であり、学習する動物としての本能的な在り方なのである。

デザインという営みのメタボリズム(新陳代謝)

200314_デザインという営み.017

"design is fundamentally concerned with the particular, and there is no science of the particular. [2]"

デザインは根本的に特定のものに関心があり、特定の科学は存在しない。

Buchananがデザインという営みが取り扱う対象物に関してこのように言った時に初めは全く意味が分からなかった。でも今ならその真意が少しは分かったような気がしている。

この「The particular」という言葉は、デザインという営みが取り扱う対象物を指している。そして、その対象物は、Horst Rittelの厄介な問題の特徴でも説明されているように「唯一無二」の存在だ。これは、一般的に「文脈」とか「ドメイン」といわれてるものを指していると解釈出来るかもしれない。私たちが、何かに形を与えようとしているときに、その「唯一無二」の環境に自らの身を置いて実感しなければ見えてこない「価値」こそが、デザインという営みが取り扱う対象物なのだ。

Alexanderが盈進学園東野高等学校のプロジェクトに取り組んだ際、建設現場に何度も足を運び、その土地が持つ生命を見立て、目印となる旗を直接立てながらデザインの計画を進めた。普通ならこのような非効率に思われるアプローチは、資本経済的に考えて避けるべき行動であるかもしれない。しかしながら、非常に単純なことで、そのようなアプローチを取らなければ、その唯一無二の空間に眠る生き生きとした価値の構造を見立てることが出来なかったのだ [6]。

唯一無二を対象として取り扱うデザインという営みに、「A→B→C→D」のようなわかりやすく定型的なデザインプロセスは存在しない。なぜなら、求める形に辿り着く道のりも参加するデザイナーたちもまた、唯一無二だからだ。

一方で、価値が形式知として体現された人工物は、相互作用的な学習を通して私たち人間を変化させると同時に、新たな科学的分析・理論化の対象となる。そして、人類全てが共有する資産としての知識体系に吸収されていく。私たちは、この知識体系を効果的に活用することで、同じ歯車を毎回発明せずに、注力すべき対象に資源を投入することができる。一人の人生体験のみを知識を吸収するためのインプットとする人に比べて、先人たちの莫大な人生の蓄積をも積極的にインプットする人は、未だ形を与えられていない価値の在りかを見つけ出すコツをおそらくよく知っている。

共創型・参加型のデザインの手法が、出来る限り多様性を求めて、多くの人々を巻き込もうとするのは、個人の知識量だけでは辿り着けない発見を目指しているからである。ただし、その枠の大きさは、参加者の専門性や知識量に依存する [16]。つまり、言ってしまえば当たり前のことなのだが、デザイン思考の過程に参加するデザイナーの専門性の振れ幅は、対話を通して互いに重なりあおうとした際に、そのまま形を与えられる価値の深さとして体現する。水野学のいう「センスは知識からはじまる」とは、まさにこのようなものだろう [17]。だからこそ、過去を振り返り先人たちの軌跡と知識体系に触れることは、形を生み出すこととと同じくらい欠かせない取り組みなのである。

私たち人間は、このようなデザインという営みのメタボリズムの中で、思考し、対話し、制作し、分析し、学習し続ける生き物である。

2の終わりに

多くの言葉を使って、デザインという営みの本質を探ってみた。歴史的に重要な文献を参考・引用にしているから、こういう考え方が「絶対で、正しい」とは思っていない。Alexanderの「A Pattern Language」のようにこれもまた、一つのデザインの見方だ。ただ私の中では、デザインという営みの持つメタボリズムが見えた。そのことは、一つの収穫だと言える。

デザインを始めるきっかけは、些細なことで構わない。大学に行ったからでも、絵を描くのが好きだったからでも、仕事で独学したでも何でもいい。でも、デザインという営みは、人間と人工物とそれらを取り巻く環境の歴史から成り立っている。このことは勉強したからと言って今すぐに役に立つものでもなんでもない。ただ、自分がどのような積み重ねの上に立っているのかを理解することで、今よりもほんのすこし、デザインという営みに携わっていることに誇りと責任を感じながら、価値を形にできると思っている。

私のデザインに対する姿勢と最も的確に合致する、原研哉の「デザインのデザイン(2003)」からの引用でこの記事を締めくくりたいと思う。

僕はデザイナーではあるが、この「ナー」の部分は優れた資質があるという意味ではなく、デザインという概念に「奉仕する人」という意味である。ちょうど庭師をガードナー呼ぶように、デザインの庭を掃いたり手入れしたりする人 [18]。

---

参考・引用文献

[1]
田浦俊春
"デザインの社会的動機ー技術成熟化社会におけるPre-DesignとPost-Designの役割. (2012)"
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssds/20/1/20_KJ00008612396/_article/-char/ja/

[2]
Richard Buchanan.
"Wicked Problems in Design Thinking. (1992)"
http://web.mit.edu/jrankin/www/engin_as_lib_art/Design_thinking.pdf

[3]
Herbert A. Simon.
「システムの科学(1999)」
https://amzn.to/2TDPDnr

[4]
László Moholy-Nagy.
「Vision in Motion (1947)」
https://amzn.to/2IkNtnr

[5]
Wikipedia.
"工学"
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%AD%A6

[6]
長坂一郎.
「クリストファー・アレグザンダーの思考の軌跡 — デザイン行為の意味を問う(2015)」
https://amzn.to/2PMzoDy

[7]
Horst W. J. Rittel & Melvin M. Webber. 
"Dilemmas in a General Theory of Planning (1973)"
https://urbanpolicy.net/wp-content/uploads/2012/11/Rittel+Webber_1973_PolicySciences4-2.pdf

[8]
Wikipedia.
"Underdetermination."
https://en.wikipedia.org/wiki/Underdetermination

[9]
本村章.
「デザインという営みの本質を探る 1(2019)」.
https://note.com/akiramotomura/n/n604d40b29634

[10]
Northwestern Engineering.
"Hugh Dubberly: Is design similar to science and engineering? (2018)" 
https://www.youtube.com/watch?v=zJIONHSHt1w

[11]
西村清和.
「遊びの現象学(1989)」
https://amzn.to/2wzfRzn

[12]
@kawakawa.
「オブジェクト指向の『語る』と『示す』(2020)」
https://speakerdeck.com/kawakawa/obuziekutozhi-xiang-false-yu-ru-to-shi-su?slide=31

[13]
Christopher Alexander, Sara Ishikawa, & Murray Silverstein with Max Jacobson, Ingrid Fiksdahl-King, & Shlomo Angel. 
「A Pattern Language Towns・Buildings・Construction(1977)」
https://amzn.to/3cAfVja

[14]
Hugh Dubberly. 
"How do models 'work' in design & research? A model of modeling (2011)"
http://presentations.dubberly.com/Model_of_Modelling.pdf

[15]
Alan Kay. 
"User Interface: A Personal View. (1989)"
http://worrydream.com/refs/Kay%20-%20User%20Interface,%20a%20Personal%20View.pdf

[16]
前川正実.
"システム思考の応用によるデザイン思考のプロセスの理解(2015)"
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssds/22/1/22_KJ00009904508/_article/-char/ja/

[17]
水野学.
「センスは知識からはじまる(2014)」
https://amzn.to/3a1dxAp

[18]
原研哉.
「デザインのデザイン(2003)」
https://amzn.to/3cxdX2S

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
note.user.nickname || note.user.urlname

基本的に今後も記事は無料で公開していきます。今後もデザインに関する様々な書籍やその他の参考文献を購入したいと考えておりますので、もしもご支援いただける方がいらっしゃいましたら有り難く思います🙋‍♂️

もしよろしければ、読んだ感想をいただけると幸いです:)
33
Service designer and (board) Director at Yumemi, Inc. Previously, Interaction designer at Dubberly Design Office.

こちらでもピックアップされています

アウトプット
アウトプット
  • 505本

ゆめみの【勉強し放題制度】を活用したアウトプット、その他に、メンバーが自分自身で学んだことをまとめています。 ゆめみの独自制度である「勉強し放題制度」は、あらゆる学習費用を100%会社が負担します。書籍、社外セミナー、実験機材、認定資格の受験など、成長のためのコストは会社が全て負担。また、業務時間の10%は自由な活動に使うことができます。

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。