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THINK TWICE 20200809

8月9日(日) 長崎

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戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。

吉田健一のこの言葉はみなさんも一度は目にしたことがあると思います。

これは終戦から12年経った昭和32年、吉田が長崎を旅行した際の心象を、朝日新聞の連載〈きのうきょう〉に綴った、「長崎」という随筆から切り取られたものです。

この箇所がひとり歩きし、広く知られるようになったきっかけはあとで書きますが、いま「長崎」の全文を読むのはちょっと大変です。

なぜなら、昭和30年代にいくつかの単行本や全集に収録された後、昭和54年に集英社から出版された『吉田健一著作集 第13巻』以来、どんなアンソロジーにも再録されていないからです。

ごぞんじのように彼は吉田茂の長男として生まれ、幼少の頃から中国やヨーロッパで生活。ケンブリッジ大学へ留学経験もありました。終戦の年の5月に軍隊へ応召されますが、敗戦が決まって自動的に除隊処分になり、戦場に出ることはありませんでした。

ぼくは地元の図書館に行き、集英社の全集を借り出して読みました。600字にも満たない短い文章なので、全文引用したい誘惑にも駆られたのですが、コピーライトの問題もあるので自粛。大まかに要約してみたいと思います。

「長崎」は吉田が45歳の時に書いた文章です。私的な旅行か、仕事だったのかは不明ですが、彼は長崎へ列車で辿り着きます。昭和32年といえば、国鉄が「新幹線構想」を最初に掲げた年。東海道本線はすでに全線電化していたとはいえ、東京〜大阪の移動は7時間半もかかっていました。長崎への電車旅なんて、月に行くくらい……というのは大袈裟だけど、かなり大変だったでしょう。

到着後、彼は丘に登って、市街地を見渡します。目に映る長崎の街は、すっかり復興を遂げて、原爆の爪痕もまったく消えていました。

唯一、爆心地からわずか500メートルほどの場所にあった浦上天主堂 *1 は、廃墟のまま据え置かれていましたが、彼は「何も原爆の記念に残してあるのではなくて、建てるのに四十年掛つたこの東洋一の天主堂を再建するのが、さう簡単には行かないだけの話である。恐らく今から又四十年後には、前のに劣らないものが長崎市の目印の一つになるに違ひない」と、クールに切り捨てています。

*1 吉田は建設に40年かかったと書いていますが、実際は明治28年に起工し、大正14年に完成しているので、期間は約30年でした。また再建もさほど時間はかからず、2年後(昭和34年)に天主堂は再建され、原爆によって崩れ落ちた廃墟の一部が平和公園に移設されました。

実は「戦争に反対する唯一の手段は……」が登場する直前のパートで、おそらく吉田にとって、その一文よりもはるかに強く読者へ印象づけたかった主張が綴られています。引用してみましょう。

「戦争に反対する最も有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度と再び、……と宣伝することであるとはどうしても思へない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人達も、見せものではない。古傷は消えなければならないのである」

そして、この文章のあとに「戦争に反対する唯一の手段は……」という文章が続くのです。

それで最後にもういちど「過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語つてゐる感じがするのである」とダメ押しをして、文章を閉じます。

昭和30年、広島の原爆資料館と長崎の平和公園が完成していました。吉田はそういった〈歴史的モニュメント〉さえ「見せもの」と暗に否定し、廃墟の中から立ち上がり、今を生き抜こうとする人々のたくましさや、悲惨な歴史の上に現代的な町並みを上書きすることをむしろ礼賛しています。

ぼくはかねてから、吉田の「戦争に反対する唯一の手段は……」という言葉を〈丁寧な暮らしこそが反戦〉といったニュアンスで解釈することに対して、どこか違和感を覚えていました。戦争のような、理不尽で、強大な暴力装置に一個人が対抗する、たったひとつの手段が、おのおのの生活を美しくして、それに執着しなさい───では、あまりにメッセージとして弱くないか? と。

先ほど引用した前後の文を読めばおわかりのように「各自の生活を美しくして、執着すること」を、慎ましく、おだやかな暮らしを貫くことこそが反戦……と解釈するのは、吉田が綴ろうとした精神とはほとんど重なり合いません

彼がほんとうに言いたかったのは、人間がいくら過去の教訓に真摯に向き合っても、そういった残酷な厄災は避けられないのではないか、という諦念だと思うのです。だからこそ、古い傷跡を撫でながらいつまでも感傷に浸るのではなく、新たな行動をおこし、立て直すことのほうが美しくて、尊い、と言いたかったんじゃないでしょうか。*2

*2 先般、問題になったダーウィンの言葉(実際は違うのですが)「この世に生き残る生物は、激しい変化にいち早く対応できたもの」と、改憲論議の紐付けと同じ───とまでは言わないけれど、この吉田の言葉を軽薄に利用して、自己肯定する人たちがあまりにも多いことにはうんざりします。

戦争だけでなく、毎年のように発生する水害や地震、あるいはコロナ禍のような未曾有の事態に見舞われて、歴史ある建物が失われたり、長年、愛されてきた町並みがあっけなく消えてしまったりします。その結果、人が豊かに生きていくうえでの小さな張りあいや誇りみたいなものは確実に失われていく。しかし、防災や新しい経済活動のために行われる〈更新作業〉は、ある程度ノスタルジーを捨てて受け入れざるを得ない……とぼくも思います。

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「戦争に反対する唯一の手段は……」が一躍有名になったのは、小西康陽さんがピチカート・ファイヴ解散から1年後、2002年の春にリリースしたトリビュート盤『戦争に反対する唯一の手段は。』というタイトルとして引用したことがきっかけでした。

そのアルバムは解散……すなわちバンドにとっての”終戦”を経て *3 、焼け野原になった場所に、さまざまなアーティストが新たな解釈をもちよって築きあげた、一種の〈ピチカート・ファイヴ記念館〉でした。

*3 2001年、渋谷オンエアで開催されたピチカート・ファイヴのお葬式イヴェントに、ぼくも常盤響さんとのTMVGで参加。イヴェント翌日の「めざましテレビ」で、ぼくが永ちゃんばりのマイクスウィングをするところがばっちり映ったのですが、残念ながら録画していません。悔しいです。

小西さんが「長崎」の全文を読んだのかどうかはわかりませんが、「過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない」という結びの文章を踏まえたうえで、このプロジェクトを遂行していたのだとしたら、相当に自虐的ですよね。いつかまた小西さんにお会いする機会があれば、そのへんの真相を聞いてみたいところです。

ただ、少なくとも、ぼくは今回「長崎」の全文を読んだことで、「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」が、以前とは違う深い響きを伴って、何度も思い返したい言葉になりました。




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