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【短編小説】聞き役

あらすじ
妻の誕生日に計画した旅行
車内では彼女の文句が響き渡り、夫は聞き役に徹するのだが…

読了目安:約10分


「もう! どうして鳴らないのこれ?」

晴れ渡る空の下、都会を離れ、爽やかな田舎道を走らせる車の中で、妻の憤る声が響き渡る

「もう!」
車のダッシュボードに埋め込まれたオーディオ機器を叩く音がする
妻は実に感情的になりやすい性格でかつ機械音痴だった

「Bluetooth接続がうまく行っていないんじゃないかな、一旦再起動してみて」
「え? そういうこと? …これでいい?」

いつも会話の主導権は妻にあるが、
機械周りのことについては僕の言葉に渋々従うところが愛らしい

「あ、繋がらないと言えば、あなた昨日の夜何であんなに遅かったの?
今日は朝から出かけるって言ってたでしょ? 準備一人で大変だったんだから!」
機械の問題が解決すると、妻の怒りの矛先は僕に向けられた

「ごめん、ごめん…取引先の接待が長引いちゃってさ…」
「今どき、飲みニケーションも無いでしょ、あなたの会社、体質が古すぎるのよ」

妻の辛辣な言葉が今日も心に刺さる
いつものように僕は聞き役に徹する

「ははは…」
僕は愛想笑いをして誤魔化したが、それからも妻は不満を長々と吐露し続けていた
よくもここまで次々と話題を飛躍させられるものだなと感心する
お陰で長いドライブ中、話題に困ることがないというものだ

車は妻が以前行ったことのある観光地に着く

そこには展望台があり、眼下には湖や青々とした山々が見下ろすことができた
少し行くと水族館もありこの地域一帯が観光地となっているようだ

「ね、いいところでしょ?」と妻が同意を求めてくる
「ああ、すごい景色だなぁ…」
「ふふふ…やっぱりこの季節はここが最高なのよね!」

僕らは時間を忘れてゆったりとそこで何気ない会話をして過ごした

「あ、ペンギンが歩いてる!」

動物園に着くと妻が可愛いものを見た時特有の甲高い声を出した
しかし僕はペンギンを見つけることができないでいた
それでも興奮する妻の声に合わせて相槌を打った

水族館で魚やイルカショーを観て
レストランでは海をイメージしたというジェラートを食べた
少し歩き疲れた体に冷たいアイスが染み渡るようだった

「はぁ…疲れたぁ…」

ホテルに着いた妻は早速ベットに倒れ込み、大きく軋む音を立てていた
僕もテーブル横のソファに腰を下ろして一息つく

「あなたも運転お疲れ様、肩叩いてあげよっか?」
妻が布団に体を預けたままこちらへ声をかけてきた

「あぁ、頼むよ」
僕が依頼すると、妻は鼻歌を歌いながら近づいてきて僕の肩をトントンと叩く
僕はしばらくそのリズムに身を委ねることにした

「妻のグラスには白をお願いいたします」

若いウェイターは少し怪訝な表情をしながらも妻のグラスへ食前酒の白ワインを注いでくれた
僕は炭酸が欲しかったためシャンパンを頼む

僕と妻はグラスをチンと合わせ「お疲れ様」と労いの言葉を掛け合った

その後、テーブルには2人分のコース料理が次々と並べられていく
どれもとても美味しいが、僕には少し量が多いと感じる

料理を堪能し、お腹がいっぱいになり、食後のコーヒーをゆっくりと味わっていた頃、支配人から声をかけられた

「いつもご利用ありがとうございます、おくつろぎいただいておりますか?」

僕は大切な妻との時間のリズムを予定外に乱され、少し嫌な気分になった
しかし、ここは妻との思い出が詰まった大切なホテルだ
これからも支配人とは良好な関係を築いておきたい

「もちろん、いつもお心遣い感謝します」と私は支配人に丁寧に応える
「もったいないお言葉、ありがとうございます」

「このサーモン、悪くないわね」
妻は私と支配人の会話へ配慮することなく、独り言のように声を発している

「確か今日は奥様のお誕生日でしたね
あの日のことは昨日のことのように覚えております…」
と言って支配人が僕に頭を下げる

僕も決してあの日のことを忘れることは無いだろう

妻へサプライズとして用意してもらった誕生日ケーキに書かれた「Yuri」が「Yui」となっていたのだ
原因は僕がひらがなで「ゆり」と書いた文字を、スタッフが「ゆい」と読み間違ったためだったが
明らかに最初からローマ字表記で伝えなかった僕に非があったと思う

それでもこの支配人は深く謝罪してくれたのを覚えている

しかし彼女の大嫌いな上司の名前が「ゆい」であったことも手伝って
その夜の彼女の言葉はホテルを全焼させるほど炎上したのだった…

僕の中では既にいい思い出となっていたが、支配人にとっては苦い記憶だろう

「え? え?」
その時、妻が驚いた声をあげていた
しかし妻の声は支配人には届いていない

「奥様と最後にお見えになったのはもう何年前になるでしょうか…」

「5年前の今日です」と僕が答えると
「さようですか…」と言いながら支配人が僕のテーブルの向かい側の席を見る

「ねぇ…このプレートの名前、違うんだけど…」
妻が不満そうな声を僕にぶつけていた
「え?」と慌てる僕の声が耳のイヤホンから聞こえてくる

「素敵です…今でもとても愛されておられるんですね…ごゆっくりどうぞ…」
支配人はそう言って誰もいない空席を少し後ろに引いてくれた

翌日、私は妻との思い出のホテルを後にした
帰り道の車内でまた音声を再生する

5年前、今回の旅行プランとまったく同じ時期、同じコースの旅を妻とした
興味本位で録音した“旅行日記“は帰りの音声までしっかりある

帰り道も妻の愚痴は止まることはなかった
聞き役に徹していた僕にも所々で相槌を打つようなセリフがある
何度も聞き、すっかり覚えてしまった台本の様にタイミングを合わせて自分の音声に声を重ねる

妻は感情的で機械音痴で、照れ屋だった
素直に喜びを表現するのが苦手なために言葉に少し棘が多いだけなのだ
長い付き合いの中で、僕は言葉通りではない妻の喜怒哀楽を聞き分けることができるようになっていた
この旅行中、妻は概ねゴキゲンだっただろうと僕は思う

車は無事家に着いた
しかし音声はまだ続いている

駐車場の車内で僕はしばらく目をつぶり音声に聞き入る
移動の足音やドアを開閉する音などの生活音の中に僕へ片づけなどを指示する妻の声が混じっている

「あれ? まだこれ録ってるの?」と
妻が録音を切り忘れていたことに気がつく言葉で音声はブツっと実にあっさり途切れる

ずっと気がつかずにそのまま切り忘れて、録り続けてくいれば良かったのにと思う

僕は未だに妻の言葉が存在しない空虚な沈黙が苦手だった
僕は再び車を出し、最初から音声を再生する

「はい、録ってるよー」という感情のない僕の声から音声は始まる
しかし、妻の声はしばらく聞こえてこない
慣れない録音にあのおしゃべりな妻でも緊張しているのだ

「…何か言ってよ」という僕のリクエストに
「べ、別に自然体でいいじゃない、私から話さないといけないルールでもある訳?」と妻が反発する
「ごもっともだ」と音声を聞く僕は納得する

しばらくすると録音していることを忘れたようにいつも通り話しだす妻
僕の視界はまた見えづらくなっていた

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